2018/04/30

麻薬的に気持ちい異世界転生ものというジャンル

ここ2~3年でいわゆるなろう系からのアニメ化も増え、自然と目にし見る機会も多い異世界転生ものというジャンル、流行りのジャンルだけあって批判する向きも多いけど、自分は決して嫌いではない。
いやどちらかというと楽しんでしまっている方だと思う。
ぶっちゃけそれより少し前にラノベ系で流行っていた異能魔法学園バトル(でいいのかな?)よりはすんなり楽しめている。

最近思うのはこの異世界転生ものって若者よりもおっさん中年向けのジャンルなんじゃないかと思っている。

なんでそう思うのかというのを雑に語りたくなったので、ちょっとまとめたいと思います。
はっきりいって取り留めなく書く、特に考えがまとまっているわけではないので、あまり期待しないでください。

(異世界転生といってもここでは、異世界(ゲームの世界含む)に主人公が行き活躍するものすべて含みます)

とりあえずアニメ化されたものだけでもお気に入りな作品としては、少し前のものも含めてGATE、オーバーロード、ログホライゾン、このすば、ノーゲーム・ノーライフ、ナイツ&マジック、幼女戦記、と結構ある。
デスマーチもこりゃダメだと思いながらも結局最後までみてしまった。
「転生したらスライムだった件」はコミック版から入って、なろうのサイトで小説の方もかなり読み進めました。
今また「スライム倒して300年」を読み始めてしまった…
たぶん流行からは少し遅れてるとは思うんですが

おもにアニメで見ているものが多いので小説としての出来云々とかは、とりあえず置いときます。
少なくともアニメ化までされた作品は、それなりに質と面白さがあったからこそ生き残ってアニメ化されたんだろうな、フィルターされてるんだろうなと思うので。
数が多いだけに批判されても仕方ないものが多いのも事実なんじゃないかと思うけど、それは流行ジャンルの宿命でしかないと思うし。


で、よく批判されている要素の一つに、ファンタジーとしてダメだ見たいな批判をよく目にするのだけれど、これは少し筋ちがいなのかなと。
要は、異世界=ファンタジーではあるけれど、そこに描かれている「ファンタジー」はTVゲームのRPG的な世界であって、指輪物語に代表するガチのハイファンタジーではないから駄目だという言説。
これは読者も書き手も結局TVゲーム的RPGの世界に行って遊びたいのであって、新しい設定や細かい世界観を見たり理解したりを楽しみたいわけではないのだと思う。
おっさんになると悲しいかなあたらしいものを取り入れるのがつらく億劫になる。
なので、オークだのエルフだの知っているものが出てきて、冒険者だのギルドだの馴染んだ世界設定の方がストレスなく世界になじめてしまう。
その方が楽なのだからしょうがない。
ここはいわゆる正統な「ファンタジー」とは別種のジャンルと思ってもらう方がいいと思う。
中年おっさんはハイファンタジーも一通り嗜んだうえで、このゲーム的なRPGの世界に安住の地を求めてしまっているのではないかと思うのだ。

あとこれはすべての作品というわけではないので一概にはいえないとは思うのだけど、このジャンルの主人公は少し年齢が高い。
転生前が30前後のサラリーマンだったり何らかの職業的スキルをもって働いていたり。
ちょっと特異な知識や経験を生かして異世界で無双するというパターン。
これって一種の成り上がりものとしてみることもできる。
10代の主人公にありがちな成長や苦悩、葛藤というのは無縁で、ただその能力で無双して成り上がって成功していく、また前世での経験や失敗を踏まえて、ピンチに対して上手に対処し失敗を回避し二度目の人生として上手くやっていくことによって、その世界を生きること肯定している。このパターンが最高に麻薬のように気持ちいい。
そういう意味では序盤だけが好きだったりする作品も多い。(成り上がって以降はわりとどうでもよくなってしまうのよね)
さらに無双することによって主人公が周りから称賛され承認されちやほやされ、さらに登場キャラたちと主従関係が結ばれてかしずかれる尊敬されるのも麻薬的に気持ちいい。
あとこれもごく一部でしかないし、かなり個人的な趣味に基づくかもしれないが、奴隷の女の子を開放したり差別的扱いの種族の女の子を庇って平等に扱い、惚れられるパターンも麻薬的な心地よさがある。

甘い甘い心地よい世界の作品が受ける、というのは昔も今もそれほど変わっていないのではないかと思う。
それがハーレムものだったり、異能学園ものだったり、日常ものだったりジャンルを少しづつ変えているだけで。
それを否定したらオタクコンテンツそのものの否定だ。

ただ最近の異世界転生ものに関しては、これが若者に受けてるの?ほんと?おっさんむけじゃないの?と思ってしまうくらいに、おっさんが癒される要素満載なんだと思うんですよね。
おっさんであるところの自分には、あ、やべえなぁと思ってしまうくらいに麻薬的な心地よさがあると最近自覚してきてしまったので、まあ服用はほどほどにした方がいいのかなあ、と思わなくはないのですが。

たぶん否定したがる人たちは、その麻薬性に気づいているからだと思うんですよね。





転生したらスライムだった件は成り上がっていくのが最高に気持ちよくて困る。




主人公の女の子が過労死で死んだので転生して不老不死にしてもらいスローライフするっていう、自分がもやもや考えてたことそのものずばりの内容だった。

2018/03/30

「宇宙よりも遠い場所」感想。青春ものとしてのバランスと冒険ものとしての面白さ

1クールもののオリジナル作品として、まごうことなき傑作でした。
1話から最終回の13話までほぼ最後まで息切れすることなく、途中何度も泣かされるエピソードを連発してのワンクール。そのシナリオ、構成はほぼ完ぺきといっていいくらい巧みで練り上げられていたと思う。

本作がノーゲーム・ノーライフでヒットしたいしづかあつこ監督を中心としたスタッフで作られていたことから、マッドハウスがこの作品に以下に力を入れ、いしづか監督に信頼を寄せていたかも伺える。

個人的にこの作品のどこが一番良かったのか、というのを考えると、おそらく青春ものとしてのバランスの妙にあったと思う。

現代の高校生くらいの女の子を主人公にした作品の舞台は、学校に限定されがちで、部活などの小さなコミュニティをメインにした日常や人間関係を描いた作品にやや偏りがちではないかと思う。
そういった作品の大部分が、ゆるくて居心地のよい箱庭的な世界での日常か、正反対に真摯であったりほろ苦さを含んだ関係や恋愛を描いた青春ものであるか、おおむねどちらかに振れているのではないかと思う。
直接的なわかりやすい例を出すなら前者は「けいおん!」であり後者は「ユーフォニアム」だろう。
どちらも素晴らしい作品であることは認めつつも、個人的には「けいおん!」はゆるすぎて「青春もの」としては物足りず「ユーフォニアム」はガチすぎてちょと辛い。

「宇宙よりも遠い場所」はその中間というか、青春ものとしてゆるすぎずガチすぎず、ストンと心に落ちてくる、ちょうどいいバランスの上に成り立っている。

女子高生が目指すものが、「南極に行くこと」であるという素材のチョイスも絶妙で、非日常的で「女子高生」からイメージするものから距離がありつつも、戦車よりもリアリティがあり絶対に不可能とは言い切れない。
ゆるすぎず少し高めのリアリティラインを守りながらも、日常からいい塩梅で逸脱しているおかげで、「ガチ」な青春ものとしてリアルな重さや生々しさに落ちいらずに済む。
視聴者の立場からは、これはフィクションだからという言い訳が成り立つので、多少の重さや青臭さがこちらを切り付けてくる恐れがない。
キャラの描写も逸脱しない程度に崩されて、シリアスにより過ぎないゆるさもしっかり担保されている。
このバランスの上で青春ものとしてのドラマを次々と放ってくるため、無防備になった心の隙間に入り込み、涙腺をガンガン決壊させられてしまうのではないかと思う。


本作のもう一つの魅力は、青春ものでありながらこれが現代を舞台にした見事なまでの冒険ものであるからなのではないかと思う。
如何に女子高生が南極にたどり着くのかという物語は、これだけでも想像力を刺激し、十分ワクワクしてくる。そこをテクニカルにリアリティを逸脱することがなくせいりつさせた構成だけでも見事なのだけれど、さらに本作はその上をいっているのだ。
物語の大筋をざっくりまとめるとだいたいこんな感じでまとめられると思う。

「冒険を夢見ながらも勇気がもてず踏み出せずにいた少女(キマリ)が、失った母の眠る未地の場所(南極)を目指す孤独な冒険者(報瀬)に出会い、共に目的地を目指す旅に踏み出す。その過程で仲間(日向、佑月)を得て友情や絆を深め、困難に立ち向かい、ついには目的の地にたどり着き、孤独だった冒険者は、そこで失ったものを取り戻し、大切な宝を手に入れる。」

ファンタジーものでも十分成り立ちそうなプロットであり「冒険」に必要な要素がしっかりとそろてっているのではないだろうか。
冒険ものを現代で成立させるのは、かなり難しい。
それをこの作品は見事に成しえている。
そういう点においても、かなり稀有な作品であり、成功例なのではないかと思う。













2018/02/13

りゅうおうのおしごと。この「ロリの皮をかぶった少年漫画」って、自分の大好物やないかー

まあ見る前からロウきゅーぶ、天使の3Pを継ぐ奴だよね、小学生お好きでしょ?って言われたら、ええまあ、と否定はできないし、まあ、あまりこういうのは好きなんだけど好き好き大好きを公言して回るほど大好きなわけでもないけど、大体小学生の女の子が嫌いなロリコンはいないので、好きなので、これは天使の3Pの時と同じく特にツイッターでつぶやくこともなく、ひっそり家の中でニヤニヤしながら楽しめばそれで十分で、ヒトに勧めたりする類のモンじゃないよね、これは、と特に何も考えずに己の内なる欲求を満足させるためだけに見ればいいやと思っていました。

が、3話まで見た時点で気が変わった。

ロリが売りなのは確かだけどちゃんと面白いからロリが好きなら見ないともったいない。

ロリが好きじゃなくてもちゃんと面白いから見てくれてもいいじゃん!

と考えを改めました。

何が良かったかといえば、主人公の才能と強さ、勝利の喜び、敗北のくやしさ、勝負の熱さというものが、これでもかとこもっているということ、そして師弟の関係や絆、成長、ライバル等々!

端的に言ってストーリーの基本型が少年漫画のそれに忠実で完璧なのだ。

この「ロリの皮をかぶった少年漫画」って、自分の大好物やないかー、と


ロウきゅーぶ、天使の3Pにもそういう側面はもちろんあったのだけど、その流れを汲みつつ、深化させ洗練し、小学生と組み合わせる素材にもこだわっている点もやはり特筆すべきではないかと思う。
このジャンルが今後も続いてほしいと願いも込めて、この作品には成功してほしいと思っています。


2018/02/12

田舎暮らしでオタクを続けられるか?

みるみる記事が減って、ついには一年近く放置していたこのブログですが、環境の変化もありぼちぼち再開しようかなーと思っています。

今年の1月末、大学時代からおよそ20年近く住んでいた北関東のとある地方の街を離れ、両親の実家のある離島へと引っ越しました。
離島といってもそれなりに大きな島で、フェリーは一日に何往復するかぐらいは開けているのでいうほどへき地ではないのかもしれませんが、まあ都心は遥かに遠く、家の周りにはコンビニどころかまともな商店は一軒もないほど僻地ではあります。

いきなりそんな環境に放り込まれた割には、そこまで今の現状を悲観しているかというと、案外そうでもありません。

「インターネットとAmazonがあれば大体何とかなるんじゃね?」
とそこそこ楽観視しています。

実のところ一番の懸念だったフレッツ光が余裕で引けたこととで問題の7割くらいは解決してしまった気がしています。

アニメを見るにしても少し前から、ほぼ地上波の録画をやめてしまい、Amazonのプライムビデオ、Netflix、dアニメでの配信を利用することで最新の作品はほぼ抑えてみることができる。
Amazonの配送もお急ぎ便なら最速で次の日の夕方には届くことが確認できた。
実際に本やCD、DVDといった物を実店舗で買うことがめったになくなっていて、通販での取り寄せが中心になっていた。
さらに、持ち物が増えすぎた結果これ以上モノを増やすわけにはいかないという事情から、少しづつ音楽や本は電子データのみで買うように切り替えていこうと考えていたので、現状ではむしろ好都合ともいえる。
親と同居の手前、毎日のように通販の品がアマゾンの箱で届くのはやや体裁が悪いし、中身を勝手に開けられるという危険も回避できるのではないかなどと考えている。
電子書籍の良いところは場所を取らない、データにすぐアクセスできるというのもあるが、その気になれば発売日に日付が変わった時点ですぐ読める(通販で届くのを待たなくてよい)というメリットもある。
実店舗で探すために遠出したり、その結果品切れ、なんて目にあうこともない、それこそ田舎でオタクが生きていくのにぴったりではないのかと。

これが10年前、いや5年前でも相当に厳しかったと思う。
まさにアマゾンプライム様様といった具合にアマゾンに頼った生き方を今後していくことになるかと思われます。

とはいえ、近くに映画館がない。これだけはいかんともしがたい。
ライブやイベントに行くには相当ハードルが上がってしまうという問題もあるが、これはもともと地方在住者で頑張っている方々もいるので、なんとかしていきたいものです。







2017/02/09

「けものフレンズ」からうける味わったことのない感覚

今、けものフレンズが最高に面白い。

現時点で5話放映済みといったところで、ネット界隈でも
「すごーい」「たーのしー」と妙な盛り上がりを見せ拡散中。
様々な作品考察、感想など日々あげられているのですが
個人的にも、この「けものフレンズ」という作品に感じている魅力とはなんなのかを
まとめておこうと思います。

自分が「けものフレンズ」という作品に感じる魅力、それを一言でまとめてしまうと

「今まで味わったことのない感覚を味わえる」

といったところでしょうか。

ではその味わったことのない感覚がなんなのか、順をおって説明していきたいと思います。

「けものフレンズ」の1話をみた段階での予備知識として持っていたものは、原作はアプリゲームですでにサービスが終了している。動物の擬人化美少女ものである、という二点だけ。
ほぼ何も知らない状況で1話を見た時の感想としては、「あ、こりゃダメなアニメだ」だった。
この内容のなさで30分枠でやるのかというテンポ、CGはやすっぽい。サーバルちゃんはお世辞にも演技巧いとは言えない。見ているとだんだん頭が悪くなっていく、ゆるさとほわほわさ。

正直、1話で切ってもおかしくない中身と出来だったといっても過言ではなかった。
しかし、このゆるさとほわほわした感覚、疲れた体と心には心地いい気がして、なんとなく2話もみてしまうことになる。

2話前半、1話に続きゆるゆるほわほわ、面白いかといえばそんなに面白くない。
しかし後半壊れたバスを見つけ、フレンズたちと協力してバスを直す。が、バッテリーが切れていて充電する必要がある、と3話へと続く。この流れの中で、ひとつ気づく。
この物語、作品の構造が、未知の世界を探検していく冒険ものであるということに。
そして謎解きのアドベンチャーRPGのようなクエストの発生とクリア、目的の達成を繰り返しあるいは連鎖させていくことで進んでいるのだということ。
それがわかると、2話が少し面白く感じてくる。

そして3話、2話のバスに続き、朽ちて使われなくなったロープウエイが登場する。2話で感じた冒険RPG的要素の面白さはさらに補強れ、さらに、ここに至って、どうもこのジャパリパークはすでに廃墟になっているのではないか、という疑惑が明確になってくる。
遊園地の廃墟がモノクロで映し出されるEDが、すでにそれを暗示しており、その疑惑を補強し、それまで、それを暗示する情報が、3話までの間にちりばめられていたことに気づく。

けもの少女がゆるゆるほわほわなんかしている表層のイメージで隠蔽し、徐々にその作品世界の様相を明らかにしていく。
その作品構造の裏が実は、本格的なSFであり冒険ものであることを、3話まで小出しにされ情報から類推し、気づいたものだけが気づくように配置されている。
その構成の巧みさにしびれる。
しかしあくまでこの作品の主体は、けもの少女のゆるゆるほわほわの、「すごーい」「たーのしー」に集約される。
SF的冒険もの的これらの要素はその従であることは間違いないはずだ。

表層であり主体であるかわいいけもの少女のゆるゆるほわほわ、それと同時不意に伺わせる不穏なイメージと本格SFと冒険もののハードな側面。
この2つを両立した作品を少なくとも自分は知らない。
故に「味わったことのない感覚」をおぼえるのだと思う。

そしてもう一点、この作品でしか味わったことのない感覚、それはヒトとけものの関係性描き方にある。

主人公であるかばんちゃんはヒトであるらしい。
ヒトなのかヒトが「フレンズ化」した存在なのか、かばんちゃんが記憶をなくしているためにそこははっきりと明示されていない。
しかし、かばんちゃんはフレンズたちにとってはおなじ「けもの」であり「フレンズ」であると認識されている。
かばんちゃん自身も自分が「人間である」という自覚がなく、サーバルちゃんと同じけもの、フレンズであると思っている。

これは、非常に特別で重要なことなのではないかと思う。

人語を解する動物や擬人化された動物、獣人が出てくる作品というのは少なくない。
そういった作品の中で、登場する「人間」は、どちらかといえば、けものたちにとって、悪であり自分たちの領域を犯すあるいは奪う存在として描かれることが多いのではないか。
人間とけものが良好な関係にあってもなお、けものと人間の間にある差異や壁を描き、その境界、対立の克服を謳ったり願ったりするものが多くを占めているという印象が強い。
そこにはヒト種が、自然界のルールから外れ、環境破壊や絶滅種を生む原因になっている業を背負ってしまっているがゆえに、いわゆるエコロジーのテーマ的、思想的範疇から作品や世界観が呪縛されてしまっているからではないかと考えられる。

「フレンズによって得意なことは違うから」
サーバルちゃんがかばんちゃんにかけるこの言葉が象徴するように「けものフレンズ」の作品世界において、フレンズは「フレンズ化」する前の動物だった時の特性を持ち合わせていることが、描かれている。
そしてヒトである(と思われる)かばんちゃんは、その特性である「知恵」を使ったり、提供しながら問題を解決していく。
そしてそのたびに周りのフレンズたちに「すごーい」と感心され、肯定される。
ヒトがヒトであることをけものに褒められる。
「あなたは○○が得意なフレンズなんだね、すごーい!」と。

「けものはいてものけものはいない」というOPテーマの歌詞にあるとおり、他作品で「のけもの」として扱われる「ヒト」は、「けものフレンズ」の世界では同じけものの仲間「フレンズ」として同列に扱われている。
そこに対立構造や壁、境界は存在していないのだ。

「ヒトと動物が共生する世界」はこれまで、多くの作品で理想、遠い夢とされ、それを阻害する人間と動物の対立構造や壁を克服するものとして描かれてきた。
しかし「けものフレンズ」はその「理想の世界」を描いている。
それは今まで描かれたことのないヒトが望んだユートピアなのか?それはまだわからない。

ただ、今、少なくとも自分は、ここに描かれた世界に、味わったことのない不思議な感覚を味わっている。

それなりに生きて、それなりに色んな作品を見てきたつもりでも
まだ、味わったことのない感覚があった。
その驚きと興奮が「けものフレンズ」にはある。

故に「けものフレンズ」という作品に魅了されてやまないのだ。

2016/12/26

「この世界の片隅に」
公開から一か月以上、見てからだいぶ間があきましたが、そろそろいいかなーというところで感想です。

巧すぎる。
すごくいい映画。
でも遠すぎる。

超絶短くまとめると以上です。

見た直後は、いい映画を見たという以上の感想が出てこなかった。
だっていい映画としか言いようがないんだもの。

いい映画だと思えるのは、それがこの映画が巧すぎるからでもある。
技術的に優れているところがあるなら、ここのあそこがすごかったよかったという感想がでてくるが、この映画は全編が細部に至るまで極まっているうえで、その技術の高さを誇示するような作り方をしていない。
巧すぎるがゆえに巧いことを気にさせない。
映画という世界への没入を阻害させない、正しい技術の使い方がなされているので、素人がとやかく言うのはおこがましいのではないかと思えてしまう。

しかし戦争とその中で生きる人々の日常という題材は、自分にとって遠すぎる。
広島・呉という舞台もなじみがなく、登場人物の立ち位置も、自分からは遠い。
遠い場所、違う時代生活している人々、けれどそこで何が起きるかは知っている。
遠い世界知らない時代でありながら、映画を見ている間は近くに感じつつも、そこであったこと、起きたことに、そこから遠いところにいる自分が言えることなんてなにかあるのだろうか、と。
共感も反発も自分の中に見出すことはできなかった。
なにか感想を持つには遠すぎるのだ。

故に「いい映画」だったいう感想しか自分の中からはでてこなかった。


ここから余談。

自分にとっての不幸は、片渕監督を知りすぎた上で「この世界の片隅に」を見てしまったことなのではないかと思う。
もし、事前になにも知らずにこの映画を見ていれば、もっと別の感じ方をしたかもしれないし、
すごい映画をみた!傑作だ!みんな見よう!
と騒いだかもしれない。
が、それは「マイマイ新子」の時に通り過ぎた地点だったので。

片渕監督のことを意識するようになったのは今は亡き名作劇場枠で制作された「名犬ラッシー」でした(古参アピール)
「名犬ラッシー」の緻密で丁寧な少年少女の人物描写心情描写に、この人が名作劇場の監督続けてくれたら名作劇場は安泰だ!と当時そんなこと思っていましたが、すでに名作劇場の枠は命脈が尽きていてまもなく消滅してしまいました。

その後「アリーテ姫」を映画祭の上映で見る幸運に恵まれ、その時点で片渕監督が高畑勲監督の後継足りうる実力と可能性を持った存在ではないかと期待を寄せるようになった。
そして「マイマイ新子」に至るわけですが、ご存じの方は多いかもしれませんが、「マイマイ新子」は興行的には惨敗でした。

「マイマイ新子」はその傑作ぶりと大惨敗の不幸ぶりで、一部熱心なファンを獲得し地道な上映運動などを経てじわじわと拡散していき、さらにそこから今回の「この世界の片隅に」のクラウドファンディングでの制作実現へと見事な復活劇を演じて見せたわけです。

ちなみに自分はこのクラウドファンディングに出資していません。
期待する監督、制作者の出資して応援する。ということ自体は意義も価値もあることでそれ自体は素晴らしいことであり否定はしない。
ただ、個人的な考えとして「期待した監督に金出して作ってもらった映画が自分の期待を裏切った時や望むものと違った時が怖い」「出資してしまったら出来上がった映画の感想を素直に言えなくなるかもしれない」というところから二の足を踏んで出資をためらってしまった。
と、同時に片渕監督にはすでにマイマイ新子で獲得した熱心で活動的なファンが多数いるので、もう安泰なんじゃないのか、と。
ある意味この映画は「マイマイ新子」の復讐戦であり、その戦闘要員として参加していれば逆に祭りとして、もっと楽しめたかもしれないのだけれどその道は選ばなかったので、もう見る前から気持ちは複雑。

そういうなんやかんやを含めた過程を経て「この世界の片隅に」は出資したとかしないとか関係なく「素直な感想」なんてあるわけがない状態で、見に行ったわけです。

そうして見て出てきた感想は、実にフラットに
「いい映画だった」
というシンプルなものでした。


2016/12/18

ViVid Strike!総評&感想

ViVid Strike!
全話視聴完了ということで、総評&感想です。

先に簡単簡潔に総評を述べるなら

始まる前の不安と不信、期待の低さをぬぐうくらいには、面白かったし意外とよかった。
なのはシリーズの末席においても遜色のない作品足りえたのではないだろうか。
でも、おしい。

です。


さて本論に行く前に、この作品に至る経緯を簡単に。

そもそもこの作品、リリカルなのはシリーズのひとつである「リリカルなのはⅴivid」の続編ということに一応なる。
なるのだけれど、「なのはvivid」自体は実際には完結していない。
漫画版は現在も連載中であり、アニメは漫画版の途中までしか制作されていない。

その上で、「なのはvivid」の世界の時間軸を少し先に進めて、主人公を新キャラに変えての新作、ということになる。
しかも伝統の「リリカルなのは」の冠を外して。
製作発表時、正直、いったい何がどうなってこうなったのか困惑したというのが、正直なところだ。

「なのは」をタイトルから外したことで、なのはやフェイトを作品にだす意思がないのだろうということは想像できたし、メインヒロイン二人のキャストが、キングレコードの売り出し中の水瀬いのりと小倉唯ということで、世代交代を進めようという意図なのだろうということも想像できた。

しかし問題は、キングレコード、制作サイドに対する不信感をぬぐえない、というところにあった。
なぜ「なのはvivid」の二期はやらないのか、ソフトがなぜ発売されないのか(この時点ではまだBOXの発売が発表になっていなかった)
劇場版3rdはどうなっているのか。
そして田村ゆかりがキングレコードを離籍して間もない、このタイミングで、「なのは」を冠しない「なのはシリーズ」をやるという意味はなんなのか等々。

どうも表にでてこない「大人の事情」が渦巻いていて、なにやらいびつなことになっているのではないか、という不信と不安だらけで、口を開けば毒を吐きそうになるので、とりあえずここは静観して結果を見届けようと、ここまで黙ってきました。


といったところで、全話見終わったので感想です。(前置き長い)


(以下ネタバレ含みます)


11話で
リンネに
勝って欲しかったああああああああああああああ!!!!!!!!!!!!!!!!!!!

と強く思ってしまうくらいに、なんだかんだでこの作品途中から楽しんでみていましたw

最初に、おもしれえと思ってしまったのは、やはり問題の4話。
キャラの暗い過去でいじめられていた、というのはままある。
で、そういうのを見せられて、視聴者側がそのいじめっ子ボコりてえ、氏ねとか、思ってしまうのもよくあることではないかと思う。
でも、そのいじめられていたキャラが本当に復讐して、いじめっこをボコってしまう、て普通やんないだろ!!
という、予想外の面白さが発生したのが、まず第一段階

そして8話。
リンネvsヴィヴィオ、新シリーズの主人公対全シリーズの主人公
この後にはフーカvsリンネのカードが控えてることを考えると、ヴィヴィオがかませ役を担わされて敗北となるのが、セオリーだろうと思うのが自然だろう。
ところがこれがセオリー通りにいかずヴィヴィオが勝ってしまう。
この時点で予想外の事態が発生したの二回目、これがが第二段階となる。

こうなると、リンネvsフーカの勝敗についても予想どおりにいくとは限らなくなる。
ぬぐえぬ過去と罪を背負って苦悩を抱えるリンネを救済するために、フーカがリンネに戦って勝つ。
少年漫画的セオリーなら、間違いなくフーカが勝つのだけれど、いままでセオリーを二回外されているために、本当にセオリー通りにいくかあやしくなる。
何よりフーカが格闘技初めて4ヶ月とか言ってるのを見ると、ヴィヴィオに二回負けて、作品上でもぽっとでの印象で何かを積み上げて来たものがあるようには思えないくらいに描写の薄いフーカにリンネが負けるのは、いまいち納得できないし、なによりリンネがみじめすぎる。
なので超個人的には、リンネに勝って欲しい、リンネが勝つとこが見たい、と思ってしまう。
この時点で作り手の術中にはまっているとも言えなくもないくらいに、作品を楽しんでしまっているといえるだろう。

しかし、結果としてリンネが敗北して、第三段階には至らなかったのが残念でならない。
三度目のセオリー破りがあれば、自分はこの作品をもっと高く評価したかもしれない。

とはいえリンネVSフーカは最後までどちらが勝ってもおかしくない、予想がつかないバトルになってハラハラドキドキがあって面白かったことは事実だ。
それもこれも、予想ができない、予想が外れるという前段階を築くことができたからだろう。


結局終わってみれば、女の子同士が思いを伝えるために拳で語り、友情を深めるという、無印なのはの骨子を形を変えて再演し、リリカルなのはシリーズの一作として通底したテーマを内包していると思わせるに足る作品になったといえるのではないかと思う。
何よりなのはシリーズが好きな人間にとって、「ストライク」かどうかはさておき、「こういうのが見たい」というところを大きく外した作品にはならなかったとは思う。

ただ惜しいなあと思う点もある。
新キャラ、小倉唯。水瀬いのりキングの若手ホープを売り込むことがこの作品の至上命題であるなら、旧キャラの出番はもっと少なくてよかったのではないかという点。

正直始まる前は、旧キャラはライバルポジションで話にそこまで大きくかかわらないと思っていたのだけれど、ヴィヴィオの存在はなんだかんだで大きく、「なのはvivid」を前提知識として知らなければ作品をより楽しむうえでは厳しいのではないかと感じてしまう。
なのはシリーズをよく知らない人が見て楽しめたのかどうかちょっと心配ではある。

ともあれ
この作品が大好きななのはシリーズの鬼子にならずに済んで、正直ほっとしている。
これで、劇場版3rdへのはずみになれば、なお良いのだけれど。



その他余談。

中途見ていてこの作品が随所に「はじめの一歩」リスペクトが仕込まれているように見えて、そこも見ていて面白かった。
リンネがハードパンチャーで肉体に恵まれている一歩のスタイルなのに対して、ヴィヴィオが非力で肉体的に恵まれていないが、あて感と目の良さに根差して、カウンターヒット主体の宮田タイプ、その上フリッカー使いの間柴のハイブリッドで、一歩対宮田(プラス間柴)の仮想対戦を見ているようだった。
またリンネがコーチとの厳しい特訓の積み重ねの上に仕込まれたがゆえに無意識の上に放つことのできた一撃などは、まさに鴨川会長と一歩の師弟関係そのもの。

どんだけ一歩好きなんだよ、この作品w

余談その2

リンネvsヴィヴィオ戦
持って生まれた才能、ギフトの差、違い、そのうえでの努力の積み重ねの上でわかれる勝敗。
結果だけ見れば、肉体的なギフトに恵まれたリンネはヴィヴィオにとって勝たなければ作品のテーマが破たんしてしまう相手だったんだよなあと。
ヴィヴィオは格闘技が好きだけれど、肉体的には格闘技向きではない、それでも強くなるためには、勝つためにはどうするべきか、という中で自身の格闘スタイルを確立していく過程を描いているのが漫画版なわけで、リンネvsヴィヴィオは漫画版で到達していなかったヴィヴィオの格闘スタイルの到達点を見ることができた、という点でもリンネvsヴィヴィオはシリーズを追ってみている身としては熱かったのだけれど、ここでそれ見せてどうすんねん、という気がしなくもない。

でも才能も積み重ねた努力もあるリンネが、4ヶ月のフーカに負けるのはやっぱり納得いかない。

やっぱりリンネに勝ってほしかたああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああ


2016/09/05

どうやらここは新海誠がメジャー作家になる世界線のようです。

*御注意*

本記事には、「君の名は。」及び新海誠監督の過去作品に関する重大なネタバレが含まれます。
また記事は、新海作品を初期から見てきた人間による見解が主となります。





先日、新海誠監督の最新作「君の名は。」を見てまいりました。
公開してからしばらくたっていたので、初日から大入りで大ヒットしているという話を耳にし、新海作品を初期から見ていた人間としては、自分の知らぬ間になんぞ世界線でも変わったのかと正直かなり戸惑っていました。


参考:夏の終わりに『君の名は。』現象勃発! その「前代未聞」度を検証する http://a.msn.com/07/ja-jp/AAihRGo?ocid=st

言の葉の庭まで、マイナーメジャーくらいのポジションで、世間的には作品も名前もほとんど知られていなかった監督のオリジナル作品が突然大ヒットしているというのを、東宝配給による公開スクリーンの多さや、効果的な宣伝というだけでは正直説明しきれないのではないだろうか。

で、その戸惑い、疑問に対する回答の一つとしては、映画のラストを見て理解できた。

「君の名は。」のラストは「秒速5センチメートル」と真逆になっている。
秒速のバッドエンドだったラストが君の名では、そのままハッピーエンドに描きかえられている。

強い記憶と思いを共有した二人の男女が、時間と距離に阻まれ、互いを喪失していく。
この新海作品で繰り返し描かれてきたモチーフは、君の名でも繰り返される。
しかし、過去作では、その喪失されたものが回復されることがなかったのに対して「君の名は。」では、二人は再会し、喪失を回復する。
まさにハッピーエンドだ。

このラストに、多くの観客は安堵し幸福に満たされると思う。
バッドエンドよりハッピーエンドのほうが好まれる。
観客の満足度も高かろう。
「大衆向け」というのならば、このラストは当然であり、メジャーになる、売れる作品を目指すというのなら、このラストは正解なのだろう。

故にこの現在の大ヒット状況は、観客の満足度、口コミという観点から、なるほど、と理解できる。



でも、でもでもでもでもでもでも
言わせてくれ、たぶん、初めて「君の名は。」で新海作品を見た人には、あれが普通で当たり前に映るだろうけど、違う、違うんだ。
俺の好きな新海誠は違うんだ。
最高傑作は、真逆のバッドエンドの「秒速5センチメートル」で、バッドエンドだから最高なんだ。

新海誠の真骨頂の一つは、その究極に美化された感傷的な美術にある。
空や木々といった自然だけでなく、普段だれも関心を持たない都会のありふれた風景を、ただの電柱や電車や近代的なビルを、生きている世界そのものすべてが美しく光り輝いて至高の価値を持つかのように描いて見せる。
その記憶の中で美化された幻想的な風景が、「喪失」していく主人公の心に寄り添い、これまた感傷的な音楽とともにその美しい映像で、甘やかに包み込んでいく。
取り戻すことのできない「喪失」という現実が主人公に突き付けられているからこそ、この究極に美化された世界の美しさは、より残酷にその美しさを際立たせている。

しかし「君の名は。」はハッピーエンドでは終わってしまうがゆえに、過剰なまでに感傷的だった新海美術の利点は薄まってしまっている、いや失われてしまっている気がしてならないのだ。

「秒速5センチメートル」のラストに納得いかないという人が多数いることは理解している。
あのラストにエクスタシーを感じる自分が少数派なんだろうということも。
それでもあれこそが自分が好きな「新海誠」であり「新海誠」そのものであると信じている。

個人的見解を提示するならば、「ほしのこえ」「秒速5センチメートル」を新海濃度100%とするなら
「言の葉の庭」が60、「星を追うこども」が50、「君の名は。」は30%くらいといったところだろうか。

個人制作のアマチュア作品、少数スタッフによる小規模な短編、多くのスタッフを要する大規模長編と作り方や作品に求められる商業成功のライン等、作品によってバラバラなので、作家性の露出が作品によって変動することは、当然ではあろう。

しかし「君の名は。」がある意味でメジャー、大衆に向けた作品として作られた結果、作家性の露出を抑制されたことで、上手くヒットにつながったかとも言えなくもない。あるいは意図的にそうすることを課して作品作りに臨んだのかもしれない。

どちらにしても、「君の名は。」が作品的にも商業的にも作家的にも大きな転換点となることは、間違いがないのだろう。






2016/08/02

シン・ゴジラ見た

シン・ゴジラ見た!文句なしの100点!
見終わった後、口元がにやけてしょうがなかった。
満足に一言に尽きた。

ということでものすごく久しぶりに語りたいゲージが上がったので、まとめておこうと思います。
ちなみに本編の感想ではありません。



シン・ゴジラの監督が庵野秀明であるという報を知ったとき、思ったことは
「とりあえず見に行く、ゴジラというタイトルだけでめんどくさいオタク(自分含む)がわんさかわいてきてきっと喧々諤々の論争を繰り広げるだろうけど、ゴジラというタイトルにさほど思い入れのない自分は庵野作品として楽しめれば、それで十分」
というスタンスで、過渡に期待せず、かといって不安に思うこともなく公開を楽しみにしていたという感じでした。
ぶっちゃけて言えば今回のシン・ゴジラが庵野監督でなければ、見に行くことはなかったかもしれない。

で、結果としては、過渡に期待していなかったのに、ほとんど期待通りの「見たかったもの」がフルコースで出てきてもう、最高としか言いようがない。

その「見たかったもの」を端的に言ってしまえば、金子修介監督の手掛けた平成ガメラ三部作のコンセプトをゴジラでやる。
これに尽きるのだけれど、ほとんどそれが期待通りに出てきてある意味では予想外だった。
なぜならそれは、あまりにもド直球で正攻法すぎるので、やらないんじゃないかなあと。
(むしろ悪いほうの予想として、対ゴジラの対策チームなり決戦兵器が出てきてエヴァのセルフパロディみたいになるんじゃないかという危惧だけはあったのだけれど、そうならなくて本当によかった)

平成ガメラ三部作のコンセプトとは、現実の日本に巨大怪獣が現れたらどうなるのか、というシミュレーションをしてリアルに描くというもので、当時、アニメ業界に浸透してたリアリズム至上主義的な傾向の流れの中で、怪獣映画でそれをやったらどうなるだろう、やってやろうというムードの中からでてきたものだったのではないかと記憶している。
ただこのコンセプトは、本来はガメラよりゴジラのほうが向いているが、ガメラでやらざるおえなかったという趣旨のコメントがでていたかと思う。
実際、ガメラという怪獣のキャラクター性、過去のシリーズの作品性とを鑑みると、シミュレーションとかリアリズムとかといったコンセプトを当てはめるには多少無理があったことは否めない。
しかし、彼らが当時作りたっかたもの、そして自分たち(主にオタク)が見たかった「リアルな怪獣映画」がそこにはあり、平成ガメラ三部作は支持された。

そのガメラの特技監督をしていた樋口真嗣、縁の深い庵野秀明がゴジラを作ることになり、平成ガメラの一作目から数えて20年を超えて、ゴジラを冠するタイトルで「現実の日本に巨大怪獣が現れたらどうなるのか」「リアルな怪獣映画」を実現して見せた。

という、この経緯がもうすでに燃える。
平成ガメラ三部作に熱中した人ならわかってくれると思う。


あとはもうきっちりかっちりやりたいこと、やるべきことをやって、余計なことは排除したそんな映画で、ほとんど文句のつけようがない。

あえて付け加えるなら、シン・ゴジラで見てていいなあ、と思ったことのひとつは画の美しさ、カッコよさ。
そこは庵野監督なら当然、と思えるところなんだけど、見終わったとあとにふと気づいたのは、夜のシーンが少ないということ。
特撮作品ではありがちなことだけれど、セットや特撮のチープさをうまくごまかすために画面を暗くしたり、夜のシーンが多かったりするのにこれが全く逆。
日中のシーンが大半で全体的に画面が明るい。

街や空が白く明るい。その中に黒い異物のゴジラがそこにいる。
画として映える、ゴジラの存在感
これが美しかった。

今の日本国内の特撮の技術レベルがどうなっているのか正直よく知らないのだけれど
シン・ゴジラ見てて画面のチープさ安っぽさに覚めるということはまずなかった、そういう点においても至福の二時間でした。




2015/10/26

アイドルマスターシンデレラガールズ2ndシーズン 感想

最終回からちょい空きましたが、私的感想まとめておきます。

1stシーズンで感じていた感じていた違和感のひとつ
(参照:至好回路雑記帳: アイドルマスターシンデレラガールズ(ファーストシーズン) 感想
は、この作品、ストーリーの中核があくまで島村卯月に置かれていて、24話で卯月がS(miel)ING!を歌うクライマックスに向けて、すべて計算されて構成されていた、というこっとがはっきりとわかり納得した。
いや納得したというより、おそれいったというか舌を巻いた。
しぶりんとの出会い、1stシーズンでの未央の失敗から成長といった諸々のエピソードが24話に、向けての伏線、仕込みだったのかということと、S(miel)ING!という卯月のもともとの持ち歌の歌詞に含まれた意味をきちっとすくい上げて構成し、強い意思と目的を持ってこの物語が語られていたということに。

しかし、その完成度の高い構成、かなり計算された物語であるがゆえに、まったく別の違和感、疑問がわいてきてしまった。

2ndシーズンに入ってから「シンデレラ」の童話になぞらえて、「お城」「舞踏会」「魔法」「灰かぶり」というキーワードを使って、アイドルという存在や卯月の置かれた状況について描かれる場面が度々ある。
普通の女の子である卯月がキラキラ輝くための「魔法」、女の子があこがれる「舞踏会」、舞踏会が開かれる大きくてきれいな「お城」
プロデューサーという魔法使いに「アイドルになる」という魔法をかけられ、女の子たちが舞踏会というステージに立ちキラキラ輝く。その舞踏会を用意する大きな事務所が「お城」といったところか。

しかしここで疑問がわく。
「シンデレラ」につきものの「意地悪な継母と姉」「王子様」はどこに行ってしまったのかと。
「意地悪な継母」が舞踏会への道を阻む障害、現実と解釈するなら、これは美城常務と解釈することもできる。
「継母」というキーワードを出さないのは、まあそこは察してくださいということで理解できるのでいいとして、では「王子様」は?となる

「王子様」は舞踏会に現れた見ず知らずの少女に心奪われ、「魔法」がとけ会場から消えたその少女をガラスの靴を手がかりに探し出し求婚する、というのが「シンデレラ」の一般的な物語だ。

では魔法がとけて灰かぶりに戻ってしまった卯月を救うのは?

シンデレラの童話になぞらえるならば、「王子様」役を担わなければならないのは、プロデューサーでもなく、周囲の仲間、アイドルたちでもなく、卯月の「ファン」でなければならないのではないのか?

プロデューサーや未央たち仲間の支えで自ら立ち直り、またステージに立つことができるようになる、という24話の流れは、もう一度「灰かぶり」が魔法を信じて魔法をかけられて舞踏会に戻っていく、ということであり、そこに「王子様」は不在である。
 これが、ファンの存在や声援がきっかけになって卯月が立ち直るという流れならば「ファン=王子様」という解釈が成り立つが、そうなってはいない。

24話で卯月がステージに立ち言葉をつまらせるシーン、仕事をしばらく休んでいて久しぶりにファンの前に姿を出して声をつまらせている、あのシーン。自分が卯月のファンならあそこで黙っていられるだろうか、あの状況で声援を発しないファンがいるだろうか。
卯月が歌いだしたとき、見守っていた仲間のアイドルたちが喜ぶリアクションが映されるが、本当にうれしいのはアイドルたちだけだっただろうか、あそこにいた卯月のファンたちのリアクションは?

あそこには「観客」はいても卯月の「ファン」はいない、下手をするとそう見えてしまいかねない。

ここのシーンにかぎらずシンデレラガールズという作品において、ファンの存在感は極力避けられ、物語の中核からは排除されている。
なぜそうなっているのかといえば、それはアイドルマスターというコンテンツの特徴に起因するものであるといえるだろう。
アイマスというシリーズ、コンテンツの特徴はプロデューサーとアイドルの関係を中心にすえられているところにある。
ゲームではプレイヤーはプロデューサー役であり、アニメにおいても視聴者の視点はプロデューサー視点にあることを重きに置かれている。
そのアイドルとプロデューサーの関係が物語の中核であることが求められ、そうであるが故にその外部は極力排除されている。


しかし普通の女の子がアイドルとしてキラキラ輝けるのは、魔法やお城や舞踏会のおかげだけなのだろうか。
シンデレラを見初めてくれる王子様=ファンの存在があって初めて「普通の女の子」でもキラキラ輝ける、輝き続けることができる。
アイドルという存在、あるいはアイドルというジャンルを考察するとき、それを支えるファンの存在というのは決して小さいものではない。

しかし、アイマスというコンテンツにおいてファン=プロデューサーであり、そうあらねばならない。
あくまでアイドルを支えるのはファンでありプレイヤーであり視聴者である「プロデューサー」でなければならない。
だからそれが分離して見えてしまうような描写はさけねばならない。
 アニメのシンデレラガールズはその不文律を忠実に守っている。
その不文律を守っているが故に突き詰めて構成した物語の中にどうしても「王子様」というピースをはめることができず、それをなかったこととして絵を完成させたが故のいびつさ、完全であるが故に感じてしまういびつさをのこしてしまったように思えてならない。

島村卯月というキャラは、個性的なキャラがひしめくシンデレラガールズの中で、「普通」である「個性がないのが個性」という特異的なポジションにある。
しかしそれはアニメ的にはヒロインの資質でもあり、没個性であるが故に物語の中心でいられる。
故に島村卯月がこの作品の主人公、中心として物語が構成されたのは必然であったと同時に、アイドルものというジャンルを作るうえで最適だったともいえる。
だが同時にアイマスというコンテンツのひとつの限界を垣間見せてしまったのかもしれない。

それでもアイドルマスターシンデレラガールズというアニメがすごい作品だと思うのは、すでにコンテンツとして巨大になりファン=プロデューサーさんたちの期待や思い入れを背負う「お城」になり、その「お城」のイメージ、権威を損なわないだけのものをつくり、アイドル=声優たちの個性を輝かせ今もまた魔法をかけ続けているからだ。

もしかしたら、シンデレラガールズは、アイマスの今を描ききった作品なのかもしれない。






2015/07/14

バケモノの子 感想

といいつつ、それにかこつけた細田守語りですです


以前からわかっていたことだけど、今回本当に確信したのは、細田監督は少年キャラ、というかショタキャラを描くときが一番イキイキしている。
サマーウォーズの時もそうだし、おおかみこどもの時もそうだったけど、今回はメインがショタとオヤジの関係だからな!
だがしかしその楽しいオヤジとショタのパートは前半で終了してしまうのでちょっと残念ではある。
結果、ガキみたいなかわいいオヤジが7割くらい占める映画になっちゃったけど、まあそれはそれで需要はありそうだからいいんじゃないですかね!
細田監督がいよいよ自分というか本性だしてきたんじゃないかな、これは、という感じで、見てて楽しくなったというかうれしくなった。

そして今回見ていて確信を得た、というか、もしかして今までカン違いしてたのかもしれないと思ったことがもうひとつ。
それは細田監督って女の子を魅力的に描く気がないんじゃないのか、ということ。
バケモノの子でも、一応ヒロインポジションの女の子が途中から登場するのだけれど、この子にまったく魅力を感じない。
なんというか添え物感が半端ない。
実のところいなくても映画自体は成立するなとすら思える。

サマーウォーズ、時をかける少女など細田作品での女性キャラは意外と評判がよくなかったりする。
魅力がないというより嫌われる、ちょっと癇に障るところのある女性キャラが出てくる。
自分も正直好きになれないところがあって、それは単に細田監督の女性の好みが合わないだけかと思っていたが、実はそれはカン違いだったんじゃないかと考えるようになった。

そもそも細田監督は女の子を描くことに興味がないのではないのかと。
女の子のキャラを描くときに、女の子への理想や妄想や趣味を仮託すれば、自然に魅力的にうつるものだと思う。
それが多少趣味が悪かったとしても、ほらこの子のこういう欠点もかわいいでしょ?となれば魅力的に描かれるのが必然なのではないかと。
しかし最初から女の子を描くことに興味がない、女の子に自分の理想や妄想や趣味を仮託する気がないのだと、と仮定するならば、その描かれる女性はフラットな存在で、魅力がないのは当然といえる。

そんなばかな、と思われるかもしれないが、ここで二つ証拠を提示したい。

この映画後半のアクションシーンでヒロイン楓が二度転ぶ。
アクションシーンで、ヒロインを連れて逃げるというのはお約束だし、危機感切迫感の演出として転ぶシーンがはいるのもパターンではあると思う。
でも二回必要だろうか?
一度なら転んだヒロインを気遣う主人公のやさしさも強調されてプラスになるが、二度転ばれると、「うわ、この女、足手まとい」という印象を見る側は感じてしまう。
なのになぜ二度転ばせるのか?すなわち深層意識でこのヒロインを不要な存在、足手まとい、と思っているからではないのか。

もうひとつ、気づいて、あ、とおもってしまったのだが、たくさんのモブでケモノキャラが出てくるがその中で、ケモノ耳少女がほとんど印象に残らない。
だいたいはオヤジっぽいキャラがほとんど。
男くさい社会を描きたいからかもしれないが、こんだけケモノキャラを出しているにもかかわらずモブでの遊びや賑やかし程度にもケモ耳少女キャラが目立たないようになっているのは、無意識的にそうなったのか逆に作為的なものを感じてしまう。

ショタキャラに対する思い入れ情熱のつよさが、細田作品から隠しようがなくにじみ出ている、ならばその表裏として、女に対する興味関心がまったくなくてもおかしくはないのではないか、というのは自分の中では盲点だった。
自分が思う以上に細田監督はガチやったんや!

この映画に女はいらんかった。
むしろそのポジションは年下の男の子にすべきだった。
ちょうど九太と熊徹と対になるように、そしたらこの映画は完璧だったかもしれない!

今回あの女を出さなければいけなかったのは、「体裁としての恋愛要素」が映画を売るため、企画を通すために必要だったからなのかもしれないない

とはいえ、今回の映画で細田監督が自分の描きたいこと、やりたいことのかなりの部分を自由にさらけ出してきた印象がある。
未だに自分は細田守の最高傑作はウォーゲームだと思っているのだけれど、よく考えれば、あの作品も本編の女性キャラが作品の中心から意図的に排除されていたと、いまさら気づく。

細田作品に女はいらない。

ウォーゲームを超える純度100%の細田守まで後一歩。

そんな確信と期待を思わせる作品でした。

2015/06/25

リリカルなのはVivid12話(第一期終了?)感想


え?ここで終わりってくらい半端なところで終わってしまったんだけど・・・
てっきり二クールやるもんだと思っていたので激しく消化不良
これは二期前提っておもっていいんだよね?ね?

正直なところVividはインターミドル編からが本番!と思っていたので中途半端なところで切られてしまって、物語の勢いがそがれてしまうのは、いかがなものかと思ってしまう。
尺とか大人の事情とかで致し方ない部分もあるかとはおもうのだけれど
せめてミウラVSヴィヴィオまではやってほしかった・・・・

リリカルなのはVividという作品は「リリカルなのは」の名を冠するシリーズ作品で、時系列や設定も前TVシリーズからそのまま継承した直径の作品ではあるけれど、実際には旧シリーズのキャラはあまり前面にでることはなく、ヴィヴィオを中心に新キャラがメインとなり、完全に世代交代を果たすことができた、というところで非常に意義のある作品であるとおもっています。

アインハルト登場の一話から合宿編までは、それでも旧キャラがある程度でてはくるものの、インターミドル編に入ってからは、番長やヴィクター、ミカヤ、シャンテ、ミウラとインターミドル選手が多数登場し、また当初はヴィヴィオの同級生くらいの薄い存在だったコロナ、リオが試合を通してどんどんキャラが成長していくのが、原作を読んでいてもわくわくした。
特にコロナvsアインハルトの一戦はシリーズ中一番といってもいいくらいの熱い戦いで、「リリカルなのは」というシリーズの魂は、キャラが変わってもきちんと継承されているなあ、と感じさせるくらいのベストバウトだったと思う。
アニメでもここはきっちりやってくれたので、よかったのだけれど、だからこそ、ここで終わっちゃうのはいくらなんでも・・・と思ってしまう、この後のミウラvsヴィヴィオ、リオvs番長からの流れが最高なのに!!

出会い編から合宿編までは尺をつかって結構丁寧にやっていてかなり好感をもって見ていたのだけれど、本番であるはずのインターミドル編に入ってから、尺を気にしてか、つめたりきったり入れ替えたりをけっこうやっていたのに、どうしてこうなったorz

原作では、なのはフェイトはやてが試合を観戦しているシーンがあるのだけれど、そこをカットしたのはむしろ英断だったと思うのだが、一方で、試合の外での日常パートも相当削られてしまって、わりと戦ってばかりになってしまったのは、ややマイナスかな・・・

うーん、というわけで原作有の尺の問題でいまいちすっきりしないのだけれど、方向性自体はまちがってないはず!
ということで二期に期待ですね


2015/04/28

アイドルマスターシンデレラガールズ(ファーストシーズン) 感想

自分の中で考えがなかなかまとまらず、やや時間が空いてしまいましたが、いまさらですがファーストシーズン13話までの感想です。


アニメになったアイドルマスターシンデレラガールズという作品に対する現時点での見かたを簡単にまとめると、
「予想外に物語性、ドラマ性の強い作品であったことに対する驚きと、そうであるがゆえに感じる違和感と戸惑い」
といったところだろうか。

しぶりんと卯月の出会いから始まる第一話は、これからドラマを見せるぞ!
という決意のようなものを感じさせるつくりで、まずそこに、そうくるかという意外性があった。
というのも、もともとソシャゲであるシンデレラガールズのキャラクターの面々というのはかなり個性的で言い方は悪いかもしれないがわかりやすい記号的な特徴が付与されているキャラが多い。
本家765プロの面々はそういう記号性は抑えられているのとは、方向性が違っていて、それ自体はゲームそのものの特性の差であり差別化でもあるので、どっちがいい悪いと言う話でもないとは思う。
ただ、アニメ化に際して先行した765プロのいわゆるアニマスがあまり記号的でないキャラであったがゆえにドラマ性、物語性の強い作品を作るのに向いていたのに対して、シンデレラガールズはあまりその方向性は向いていないのではないかと思っていた。
ドラマ性を追求するより、キャラものとしてキャラの個性、魅力を描くことに重点を置いたほうがいいし、向いている作品だろうと、個人的にもそういうものが見たいし、そうなるだろうと期待していた。第一話の放送が始まるまでは。

しかし、その予想を見事にはずれ、6、7話にいたっては、そこまでやるか、というほどに重いというか濃厚なドラマを見せ付けられて、すごいと思いつつもかなり戸惑った。
しかし、その後の個別のユニット結成を描く各話では、ドラマ性は残しつつも、キャラの魅力、個性を描くほうに、力点が置かれていてこの個別ユニット回は、これこれこういうのが見たかったんだよ、というつくりだった。

アニメアイドルマスターシンデレラガールズは原作ソシャゲの個性的記号的なキャラで765アニマスと同じ方向性の物語、ドラマをつくろうとしていると思うのだけれど、この素材で、この料理の仕方はチャレンジ過ぎないか?と思ってしまう。

しかしその一方で、このアニメ化で最も自分が意外性を感じつつもその魅力と株が挙がったキャラがみくにゃんこと前川みくなんだろうと考えるとまた複雑ではある。

みくにゃんは猫耳つけて語尾に「にゃ」をつけるベタベタな特徴づけをされている、ある種アイドルものとしてみた場合、それこそギャグとしてステレオタイプのモブ扱いされてもおかしくないポジションにいる。
そのみくにゃんがアニメ化される中で、アイドルになりたいという欲望に忠実で、泣いたり怒ったり普通の女の子が持つ情緒を表にさらけだし、はしばしに生活臭を漂わせ、その記号的な外面に反して、もっとも血肉の通った人間として描かれている。
みくにゃんにかぎらず他のアイドルたちもそういった側面は数多く見られる。
これは、ドラマ性のあるものを作ろうとするがゆえに、登場人物をすべて等しく地に足のついた人間として描く必要性から生じたものであるのだけれど、そうであるがゆえに、記号的であったはずのキャラクターが記号的でない別の魅力を獲得するにいたったわけで、ドラマ性をおさえていたら、みくにゃんがこういうキャラに成長することはなかったかもしれない。

記号的なキャラを記号的なままで終わらせない、血肉の通った魅力を引き出したい、という意思が、シンデレラガールズという作品にはあるのかもしれない。
その為の濃厚なドラマ作りであるとしても、一方で本田未央というキャラクターは、その負の面を背負わされてしまったのではないかと思わずにはいられないのだ。

もうひとつ、違和感を感じていることがある。
それは、追い込んでいるキャラ、物語に対して、得られるカタルシスが半端に感じてしまっているということなのだけれど、それがなぜなのかは、今はまだ明確に言語化で来ていない。
6話の未央の追い込みに対する7話の解決編のカタルシスは7割、13話の節目のライブ回は8割ほどのカタルシスしか感じない。
キャラや物語を追い込んだり重い展開を見せられたら、その分100%のカタルシスで返して欲しいと思うのだけれど、そこにブレーキがかかっているというか、100%気持ちよくさせてもらえない何かがある。
正直これがなんなのか、なぜそうなのか、あるいはそう感じてしまうのかは、未だにわからない。
ひとつには、まだしぶりんや卯月。未央というキャラをまだぜんぜん描き込んでいない、道半ばの状態にあるがゆえなのかもしれない。あるいはまだ100%に持っていく気がなくて、出力をおさえているのか。
どちらにせよ、気持ちよくドラマのカタルシスを感じたいのに100%気持ちよくなれない、絶頂に至れないもどかしさを現時点では感じてしまっているのは確かだ

アイドルマスターシンデレラガールズという作品は、自分のもっている物差しで計ろうとすると、微妙になにかがずれる。
それは記号的であったはずのキャラにここまで血肉の通ったドラマをやらせようという、意欲的、挑戦的作品を過去にみたことがないからかもしれない。
そうであるがゆえに、ちょっと計り知れない何かがあるようにも感じ、現段階では第二シーズンを見るまでは判断を保留せざるを得ない、と感じている。

2015/04/10

魔法少女リリカルなのはVivid 第一話感想

TVシリーズとしてはおよそ8年ぶりのリリカルなのはシリーズ最新作にして正統続編にあたる魔法少女リリカルなのはVividがはじまりましたー、どんどんぱふぱふー

いやあ、このときを長いこと待ちました。
前作Sts終了後、劇場版2作の製作と平行して連載されていた漫画での続編ということで、いつか必ずアニメ化はされるだろうと信じ続けていましたが、よもやこんなに時が経ってしまうとはねえ。

や、もうね、はじまってから終わるまで、にやにやがとまらない。

導入の朝起きて着替えて自己紹介するヴィヴィオ、これが、完璧に無印の一話のオマージュになっていて、うまいというか、ずるいというか。
なのはがママしてて、フェイトと完璧夫婦で、ヴィヴィオと仲良し親子で家族で幸せいっぱいで、無印から始まった物語が続いていて、キャラが息づいて成長して、ここにたどり着いて、いままたそこに生きているんだという実感。
シリーズをずっと追い続けて見続けて愛情を注ぎ続けてきたからこそ、そうでない人たちには見えないものが作品の向こう側に広がって見えてきて、もう、うれしくてたのしくてしょうがなかった。

ほんとうに、自分がリリカルなのはという作品が好きで好きで、大好きなんだ、ということを再確認させてくれた。
漫画原作があるとはいえ、やはり絵が動いてキャラがしゃべるアニメは格別で特別なんだなあ、うん。

という感じで、シリーズのファンとしては大満足なのでした。

それはさておき、8年ぶりのTVシリーズということで、もはやシリーズをまったく見たことないという初心者さんもこの作品を見るんだろうなあということで、始まる前はもう少し、その辺配慮した構成になるのかな?と思っていました。
だけど、そんなことは、なかったぜ!
原作漫画を上手く再構成して導入話としてはきれいにまとめてはいるのだけれど、最初からナンバーズはじめ前シリーズのキャラはガンガン出すし、StS後のお話を書いたドラマCDにでてくるイクスも出てくるし、世界観について過剰に説明はしていないし、初見殺しもいいとこになっているのだけれど、大丈夫かしら。
まあ、過剰に説明しないのは、むしろいいとは思うのだけれど、なんとなく魔法のある世界で女の子が格闘技やってます程度の理解でとりあえず十分だし。
はてさて、これについてきてここからファンになってくれる御新規さんがどれくらいいるのかなあ、とやや気がかりではあります。 

そんなわけで始まったVivid、存分に楽しんでいきたいとおもいます。


あ、あと、今回もおなじみの奈々ゆかりのOP&ED、作品にそって明るく楽しい雰囲気になってていい感じです、とくにゆかりんのEDはいつものしっとりしたものが多かったのに対して、今回はアップテンポで疾走感のある曲になっていて作品イメージにぴったりで、ここも期待通りでよかった。

2014/12/31

2014年個人的まとめ

今年も全然更新できませんでしたが、2014年まとめです。

といっても、今年はもうすべて「未確認で進行形」というひとつの作品に集約されているといっても過言ではありません。
「未確認で進行形」という作品、本編そのものも非常に完成度が高く日常系ラブコメものとしてかなり好みの作品であったことは、確かなのですが、この作品は自分にとって過去にあまり例のない「事件」でした。
「未確認で進行形」では、本放送と同時に毎週ニコニコ生放でメインキャスト、照井春佳、松井恵理子、吉田有里の三人によるトーク番組が流されていたのですが、それがあまりにおもしろかった。まったく名前すら知らなかった新人声優三人が生放送で見せるハラハラドキドキとがんばりが本編以上にドラマチックで感動的で、すっかり三人の虜になってしまい、もはや本編が好きなのかキャスト三人が好きなのか、作品評価としてこの二つが完全に不可分なものとして、自分の中で成り立ってしまった。

作品ごとに声優によるラジオがあるのは今に始まったことでもないし、ニコニコ動画を使った特番を生でやることももはや珍しいことでもないかとは思うのだけれど、自分個人としてここまで本編と声優(しかもまったく興味すらなかった新人)が密接に絡まって、はまってしまったというのは初めてのできごとではないかと思います。
そんなわけで、未確認が終わった後もこの三人を見守り、応援していかなければという思いが
とめられず、三人のその後の動向、出演作品はできるだけチェックするようになってしまいしたとさ。
今年仕事が急激に忙しくなったために、中々時間がとれずアニメを見る本数もかなり減ってしまった中で、未確認のおかげでそれがアニメを見る動機と取捨選択の基準のひとつになっているというのが今年一年、そして現在も続いている現状だったりします。


以下今年印象に残った作品と簡単な感想

・ログホライズン

一話で見るのをやめてしまっていたのをカッターこと松井恵理子が出演していることを知り後追いで見返したら想像以上におもしろく好評価にいたった作品。

・結城友奈は勇者である。

照井春佳主演、ぱるにゃすの時代キターということで喜び勇んで見ていました。
中盤までの緊張感、不安の煽り方が絶妙にうまく、毎週どうなる的なおもしろさは確かにあってオリジナルの週アニメとしては仕掛け方も含めてうまかったとは思う。
ただラストはいまだに納得いっていない。

・ノーゲーム・ノーライフ

アニメがそこそこおもしろくて続きが気になって原作に手を出したら予想以上にはまった。
自分がこの作品の何がおもしろくて何が好きなのかちょっと他人に説明しづらい。
たぶん物語の根底にある世界や人間に対する考え方、見方が自分がガキだったころに抱いていた中二的な思想、理想と共通するものがあって、それを呼び起こしてくるからなのではないかと思う。
愚王と呼ばれたステフのおじいさまのエピソードがすごく好き。
まだアニメになってないけど原作の6巻の話が大好き。

・ろこどる

アイドルものが、アイドルになることを物語の中心、ドラマにすえるため、夢とか努力とかを前面に押し出すのが前提というか当たり前な中で、ろこどるは、地方アイドルということもあってかあまりその辺をガツガツすることなくゆるーくお仕事としてアイドルをしていて、気を張らずに楽しむことができた、数あるアイドルものの中でも、食休め的な一品かも。

・トライブクルクル

キッズ向けダンスアニメ。
どういった経緯でつくられたのかは知らないが、一話二話での脚本演出の完璧さですっかり虜になってしまった。おしむらくはもう少しダンスのCGのパターンがあればなあと。
ゲストキャラで吉田有里が出てきたのも、うれしかった。
見逃さなくと本当によかったと思える作品。


力尽きた、あとこんなもんかなー

異能バトルは日常系のなかで
のうりん
ピンポン
ハイキュー
月刊少女野崎くん
ばらかもん
棺姫のチャイカ
selector infected WIXOSS
桜Trick

劇場アニメはアイマスくらいしか見ていないような。
劇場版アイマスは自分の中で、アイマスという作品のひとつの区切りになってしまった感がちょっとあるかなあと思ったりします。

それでは、よいお年を

2014/10/01

リリカルなのは10周年!

本日魔法少女リリカルなのはBDBOX発売!
そして、本日10/1は奇しくも「魔法少女リリカルなのは」アニメ放映開始10周年なのだそうです。

自分がなのはを初めて見て、はまったのがA's放映直後からなので、10年付き合ったというわけでは、ないのだけれど実質それに近い年月かかわって、ファンであり続けていることを思うと、やはり感慨深いものがあります。

10周年の節目に残念ながら劇場版3rd公開とまではいかず、TVシリーズのBDBOX発売だけで、でお茶をにごされてしまった感がないとはいえませんが、ソシャゲのINOCENNTは新展開、そしてVividは来年TVアニメ化発表と、シリーズとしてコンテンツの継続性は常に維持されているということは、決して当たり前とはいえないことではないかと思います。

Vividアニメ化は現段階で発表されている情報よると制作をA1が担い、監督も替わり、脚本も都築氏本人以外が担当するということで、これまでの制作体制と大きく異なっている。
Vividは、シリーズのファンの期待と満足を満たすという目的がある一方で。新規層の開拓という使命もあり、その結果如何によっては、今後のシリーズの命運も幾らか左右されるのではないかと思います。
そういった新作の投入によって、なのはシリーズは11年目を向かえ、今後、どのように発展変化していくのか、下手をすれば、シリーズが途切れることなく20年を迎える可能性もあり得るのでは、と妄想期待もしてしまいます。

TVシリーズが3ヶ月ごとに新作がどんどん作られ、入れ代わりが激しい昨今のアニメ、オタク界隈の状況を考えると、コンテンツとして10年生き残ることができたというのも、本当にレアなケースで、どうしてこんなに続いたのか、ファンである自分にもなんでなのか不思議なくらいです。
一言で言ってしまえば、キャラの魅力とファンの熱意に尽きるんだろうと思うのですが、なのはのファンて本当に黙々とコンテンツに金を出す不思議な集団で、その熱意は本当にどこからわいてくるんだろうなー、と、BDBOXに10万円つぎ込みながら思うしだいであります


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2014/04/11

【雑感】アニメ視聴体力の衰えについて

アニメを見る上で必要なものとして「視聴体力」というものがある。
そしてそれは歳をとるとともに衰えていく。

と、以前から感じていて、同様のことを考えているている人をちらほら見かけるのだけれど
いままで、それを漠然としたものとし、そのアニメ視聴体力の衰えをここ最近また強く感じ始めたので、ちょっと改めて深く考えてみたいと思います。

現在40歳、視聴体力が落ちてきたなあと感じたのは30半ばくらいから
歳をとるとともに単純に多すぎる新作アニメを見るのがつらくなり、徐々に本数が減っていく傾向にあったためにそういう風に思っていたのがきっかけではあるのだけれど、ここ最近は毎期ごとの新作アニメの録画の再生ボタンを押す手が重い、というところまできてしまった。

新作アニメを見よう、見たいというモチベーションはあっても、なんとなく体が拒否している感じ。
これはなんなのか。
疲れているとき、特に集中力がなくなっている時にアニメを見ようと思っても中々気が進まない。
それが新作アニメとなると、新しいキャラクター、新しい設定、世界観をいちから理解し覚えなければならないため既存のシリーズ作品や継続作品を見るよりも、余計に集中力を使い脳みそをフル回転する必要がある。これが結構疲れる。
そのために新作アニメを見たあとの疲労感を想像して見るのを躊躇してしまう。
これは、二十代のころはほとんど感じる事のなかった事象で、本当の意味で肉体的な衰えが、集中力の衰えに直結していて、集中力がいかにアニメを見る上で必要であるかを実感するようになった。
これが自分がそう呼んでいる、いわゆるアニメ視聴体力というものだ。

いってしまえば単に集中力の問題ではあるのだけれど、この視聴体力が衰えるといろいろアニメを見る選択、好みにも影響がでてくる。

たとえば学園ラブコメものとSFロボットアニメ
どちらが視聴体力を必要とするかといえば後者だ、学園ラブコメは舞台装置は大体同じで物語もパターン化されているのでさほど理解力を必要としない、キャラの相関関係さえわかれば事足りるので、視聴体力をあまり必要としない
しかし、SFロボットものや異世界ファンタジーものは、世界観、設定が理解できないとまず作品世界になじめない、物語の進行も連続性が高く、謎や伏線を抑えて理解していかなければならないために集中力、記憶力を要求され、視聴体力をかなり必要とされる。

また作画や背景の緻密な作品、というのも画面から得られる情報量が過剰なため、やはり集中力を必要としてしまうため見ていて疲労する。
これはもともと情報量の多いSF系の作品だけに限ったこととは言えず、昨今のクオリティの上昇で一部の日常系作品も作画が緻密になり情報量が上がっている。
そういう意味ではPAワークスや京都アニメーションあたりの作品は、かなり見るのに体力を要すると感じてしまうことがある。

加えていうなら、好みや興味に左右される部分もあり、自分の関心の低いジャンルや苦手意識のあるものはやはりつらくなるり視聴体力を大きく奪われる。


一方で、好みのジャンルであるとか、そもそも情報量が少ない作品というのとは別に、視聴体力を気にせず見られる作品というものもある。
作品のジャンルにあった適度な作画の情報量、見る側に設定を理解しやすく提示するために整理されたシナリオ、そして何より視聴者を飽きさせない巧みなコンテ演出、これらのそろった作品ならば、視聴体力を意識せずに見ることができ、次回も見ようという気にもさせてくれる。
逆に情報量過多でコンテの不味い作品は見終わった後の疲労感が半端なく次回を見ようという気力が減退してしまう。
ちょうど整地されたまっすぐな道とまがりくねった未整備の悪路、歩いてどちらが体力を使わずに済むかといったところだろうか。
楽しい、面白い、はやく続きが見たい!と思えれば、あとは視聴体力なんてものは気にすることなくみられるのだけれど、一話で乗り切れなかった作品を継続して見るのはどうしても視聴体力を必要としてしまうのだ。

もちろんこの視聴体力を使わずに見る方法というものもある。
それは集中せずに適当にみればいい。
ネットしながら、実況しながら、スマホいじりながら、流し見する。
たださすがにこれを新作の1話でやる気はしないし、スロースタートでじっくりと見せていくタイプの作品というのもあるので、これはちゃんと見たほうが楽しめるだろうなあと思う作品では、流し見はあまりしたくない。
結果、好みのジャンルのものでも体力を必要としそうな作品は、後回しになり溜め込んでしまうという悪循環を生んでしまう。


そんな感じで年々、シリーズ通して全話見る作品というは減少傾向です。
全部見れるに越したことはないのかもしれないけれど、時間、体力、気力を削ってまで見てもそれはやはりつらいだけで、何でアニメ見ているのかわからなくなるし、一方で作品を見る目、審美眼は多くの視聴経験の積み上げで、自分にあった作品の取捨選択、その判断にはある程度自信もあるので、最近は見続けることのできなかった作品は、それはそれ、と達観しつつあったりします。

体力の衰えを感じつつも、それでも毎期がんばって新作を一通り見ようと努めているわけです。
まあ、なんでそこまでして新作にこだわんのと、話題になった作品とか売れてる作品だけ見とけばいいじゃんと思う向きもあるのかなと思うのですが、習い性というかなんというか。
他人の評価によるおススメや話題性だけでは、自分の本当の好みの作品にめぐり合えない、自分の目で見てみないと、結局は判断できない、そして何より自分で見出した、価値を認めた作品のほうがより思い入れが強くなる、ということを経験上わかってしまっているがゆえに、新作アニメのチェックはやめるわけにはいかないのです。

2014/04/05

未確認で進行形総評 普通を普通に描ける強さ

未確認で進行形全話視聴ということで総評です。

本作は2014冬期スタート作品ではほとんどノーマーク、1話を見るまで原作もどんな作品かもまったく知りませんでした。

しかし終わってみれば、BDをシリーズで購入決定するぐらい超お気に入りの高評価となりました。
ジャンル的には所謂日常系ラブコメ作品で、昨今必ずしも珍しくないタイプの作品でありながら、作画、演出、内容、キャラ等々好みの要素が高水準でここまでそろった作品は久しぶりというか、自分的には珍しいことかなと思います。


そんな未確認で進行形の1話での印象はさほど強烈という訳でもなかった。

「ある日とつぜん祖父に決められたという許婚の男の子が現れて同居することになることからスタートするラブコメ」という1話の概要だけでも、非常にべたというかありがちなもので、ごく普通。
ただ、作画のよさと演出の丁寧さは群を抜いていて、なかでも料理シーンを逃げずに丁寧に描写していることには、目を引いた。
日常系ラブコメとしては、普通な内容だけど、作画演出がこのレベルで続くなら安心してみていられるからいいかなあ、と最初は割りと軽い気持ちで見ていた。

その印象が徐々に変わってきて、決定的にこの作品好きだわーと自覚したのが、9話で小紅が白夜にデレる回。

小紅は本作のメインヒロインではあるはずなのだけれど、スタート時の印象では存在感がやや弱い。
というのも姉の紅緒が重度のシスコンで妹の小紅を常軌を逸して溺愛するへんたいっぷりと、許婚の白夜のお目付け役としてついてきたロリ小姑・真白の存在感が目立ちすぎいてて、紅緒と真白に比べると小紅が一歩引いた印象を受けてしまうのは致し方ないかと思う。
そんな存在感の薄い小紅と、さらに輪をかけて存在感の薄い白夜との関係がちょっとずつ進み、小紅が白夜への気持ちが知らぬ間に大きくなっていたのをはじめて自覚してしまうというのが9話。
この9話の小紅がめちゃくちゃかわいい。というか、かわいいと思わずにいられない。
小紅のキャラが、巨乳安産型で料理家事全般が得意な完璧なお嫁さんスキル持ち、という属性が付与されているが、それが単なる設定ではなく、シリーズ通して徹底的に描写されている。
第一話で印象的だった小紅の料理シーンは一話だけでなくことあるごとに描かれ、その他家事をしているシーンも頻繁に登場し、お嫁さんスキルの高さを印象付けている。
生徒会長で成績優秀な姉に引け目も感じ、一歩下がった性格、高い料理家事スキル、巨乳安産型
、許婚としてここまで完璧な嫁はいるだろうかと誰しも思うだろう。

親に決められた許婚同士がはじめはとまどったり、反発しながらも徐々に関係が深まっていく、というのはそれこそ使い古されたラブコメものの黄金パターンではある。
ただそれを、こうやって、こんな女の子を嫁さんにしてえええと思わせるキャラを丁寧に丁寧に積み上げて描き、その女の子がついにデレるということの破壊力!
この小紅かわいさというのが表面的な即席のかわいさではなく、9話かけてじっくり熟成させてきたからこそ、見る側にそう思わせる説得力と強さを生み出しているのだ。

未確認で進行形は、いってしまえば、よくある普通のラブコメであると思うし、それ以上の作品概要の説明のしようがないかもしれない。
しかし、この「普通」をそのままに、おもしろく、魅力的にみせるためには、手間暇をおしまず丁寧に丁寧に煮詰めていかなければ成り立たせることのできない「普通」さであり、ものすごくハードルの高い「普通」なのではないだろうか。
最終話もきれいに終わらせた印象で、1クール作品としてみても小さくそつなくまとまっているが、やはり、その普通さも、また愛おしい。

本編についてはとりあえずこんなところで。

ところで、もいっこ未確認で進行形で特筆しておかなければならないことといえばやはりメインキャストの3人だろう。
紅緒役の松井恵理子、小紅役の照井春佳、真白役の吉田有里、三人ともほぼ新人(吉田はこれがデビュー作)というのだから驚き。
この三人でやっているニコ生の「夜までみんなでぐっ!」あとおいで見始めたのだけれど、これが
またおもしろい。


↑この初回の放送で松井恵理子の愛称が吉田有里の提案したカッターに決まる瞬間とそれを受けてのジェンガの流れ神懸っていて必見。
すでに人気のある声優使わずにこういうところでチャレンジして新しい芽を発掘してきてるのもえらいなあと。

あと先日触れたMVの「ぜんたい的にセンセーション」含め、本作で動画工房への認識がアップしたのも本作で得られた大きな収穫だったとおもいます。 



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2014/03/28

桜Trick 感想

最終話まで視聴みたので感想をば

一言で言うと、みてて幸せになれるアニメ、でした。

1話をみた段階では、いきなりキスして、あーガチ百合ものなのかなあ
と思いきやそんなことはなく、シリアスな展開にはほとんどならず、
ゆるーい感じで女の子どうしのいちゃいちゃちゅっちゅっを毎回みせるという、ほぼそれだけ。
はじめは、なんなんこれ?と戸惑いながらも、いちゃいちゃちゅっちゅっしているのをみせられているうちに、それだけでだんだん脳がしあわせに満たされ、多幸感につつまれていくという不思議な感覚に囚われ、それが病みつきになってしまていったという。
おかげさまで、2014冬期作品の中で常にリアルタイム、ツイッターで実況しつつの視聴をせずにいられなかった、そういう意味ではかなり特別な作品でした。

さて、桜Trickをみていて感じるこの幸福感とはいったいなんなんだろう、と疑問に思いつつも、とりあえずそれは横においといて最終話までたのしんでしまったわけですが、実は最終話を見ている最中に、ふっと、その疑問の答えにだどりついたというか、つながってしまいました。


うちに山の様にあるリリカルなのはの同人誌で自分が特に好きな内容が、だいたいこんな感じのものばっかりでしたwwwwwwwwwwww
百合カップリング認定されたなのはとフェイトが学園でだいたいいちゃいちゃしているだけ、
まわりにひやかされたり、あきれられたり、キスしたり、不安になってお互いの気持ちを確認しあったりという内容。
そのなのフェイのいちゃいちゃを見ているだけでニヤニヤしながら幸せになれるというその感覚と、桜Trickを見ているときの幸福感がよく似ている。
違いといえば元ネタがあるかないかでしかないかもしれない。

というわけで、桜Trickは元ネタのない百合カップリング同人誌だったのではいか、という説を提唱してみたいと思います。

いや、べつにどうでもいいです、自分の中ですべて腑に落ちたというだけの話ですので



 


2014/03/17

未確認で進行形MV「ぜんたい的にセンセーション」がすごい

絶賛ハマりちゅうの未確認で進行形ですが、本編の細かな感想はまた後日にまとめてするとして
今回はその未確認で進行形のMVについてです



このMVを最初に見たのは某とらの店頭で流れていたものでした。
その瞬間に目が釘付け、3周か4周くらいみて、これどこで手にはいるんかなー
DVDかなにかの特典?ちょっとほしいなーとかなり気になったものの
そのときは用事があったので、その場ではいったん保留。

後日、ニコ動で同じ動画を見つけ、あらためて調べてみたところ、原作コミック4巻の限定版に付属している映像特典だったことが判明、その場で購入を決意したしだいであります


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購入以来1週間ほぼ毎日何回も見てるくらい、ものすごい勢いではまっています。

なんというかキャラクターたちが、終始くるくる跳びはねていて、すごく元気があって、楽しそう、見ているこちらも、だんだん気持ちがハイになっていく。
曲ももちろんいいけど、とにかく作画が見てて気持ちいい、うまい!

特に自分がすっげえとおもったのが上の動画の0:44あたりからのましろが後転しながらカメラに近づいて伸びをするカット
あと、1:46のあたりの俯瞰カメラに右上から小紅が歩いてはいってきてカメラを見上げてくるっとまわって左下に抜けていくカット
キャラをくるっとまわすだけでもそこそこ難しいと思うのだけれど、それをカメラによりながら(つまるところキャラを拡大縮小させながら)動かしているという、これ二重で難しいんじゃないのかなあと。

また1:43あたりの小紅が両手を横に広げて胸と肩を揺らして歩いているカットなんかは
ただ歩いているだけで、これより凝ったカットは他にもあるので、普通の動きにみえるけれど、小紅のキャラ性とかわいさがよくでていて普通なんだけれど普通じゃない。
本編をすでに見ていてキャラを理解しているから感じる部分でもあるのかもしれないが、単に作画がいいというだけでなく、こういったところでキャラ性や作品にそった動きがそれぞれつけられているのもポイント高い。
他にもフルバージョンも含めると、ここがいいあそこがいい、というポイントは枚挙に暇がないので、機会があればぜひフルバージョンを見てほしいところです。

この流れでついでにOPについてもちょこっと



冒頭のらったたらったの小紅もかわいくて好きなのですが
0:55辺りからの白いワンピースきた三人のうち小紅を残して両脇の二人が浮いていくカットが不思議な気持ちよさがあって、かなり好きです。



おまけ
EDの最後の最後でましろがゆれながら最後カメラ目線になるとこ、ここも好き
こういう風にキャラを揺らすのに、自分は弱いらしい

というわけで現時点でまだ放映中の、未確認で進行形ですが
本編もこの作画力はいかんなく発揮されていて、毎回でてくる料理シーンが手抜きなしのガチで作画してたり、日常動作ではっとするようなカットが散見されるなど、作画陣の優秀性を感じています。

はてさてこんな感じで、本編にもどっぷりはまってしまい
原作コミック4巻まですべて購入済み
BDも購入決定済み
次に出る原作5巻の特装版も購入予定であります。


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どちらもOVAがつくようなので、たのしみだー