2016/09/05

どうやらここは新海誠がメジャー作家になる世界線のようです。

*御注意*

本記事には、「君の名は。」及び新海誠監督の過去作品に関する重大なネタバレが含まれます。
また記事は、新海作品を初期から見てきた人間による見解が主となります。





先日、新海誠監督の最新作「君の名は。」を見てまいりました。
公開してからしばらくたっていたので、初日から大入りで大ヒットしているという話を耳にし、新海作品を初期から見ていた人間としては、自分の知らぬ間になんぞ世界線でも変わったのかと正直かなり戸惑っていました。


参考:夏の終わりに『君の名は。』現象勃発! その「前代未聞」度を検証する http://a.msn.com/07/ja-jp/AAihRGo?ocid=st

言の葉の庭まで、マイナーメジャーくらいのポジションで、世間的には作品も名前もほとんど知られていなかった監督のオリジナル作品が突然大ヒットしているというのを、東宝配給による公開スクリーンの多さや、効果的な宣伝というだけでは正直説明しきれないのではないだろうか。

で、その戸惑い、疑問に対する回答の一つとしては、映画のラストを見て理解できた。

「君の名は。」のラストは「秒速5センチメートル」と真逆になっている。
秒速のバッドエンドだったラストが君の名では、そのままハッピーエンドに描きかえられている。

強い記憶と思いを共有した二人の男女が、時間と距離に阻まれ、互いを喪失していく。
この新海作品で繰り返し描かれてきたモチーフは、君の名でも繰り返される。
しかし、過去作では、その喪失されたものが回復されることがなかったのに対して「君の名は。」では、二人は再会し、喪失を回復する。
まさにハッピーエンドだ。

このラストに、多くの観客は安堵し幸福に満たされると思う。
バッドエンドよりハッピーエンドのほうが好まれる。
観客の満足度も高かろう。
「大衆向け」というのならば、このラストは当然であり、メジャーになる、売れる作品を目指すというのなら、このラストは正解なのだろう。

故にこの現在の大ヒット状況は、観客の満足度、口コミという観点から、なるほど、と理解できる。



でも、でもでもでもでもでもでも
言わせてくれ、たぶん、初めて「君の名は。」で新海作品を見た人には、あれが普通で当たり前に映るだろうけど、違う、違うんだ。
俺の好きな新海誠は違うんだ。
最高傑作は、真逆のバッドエンドの「秒速5センチメートル」で、バッドエンドだから最高なんだ。

新海誠の真骨頂の一つは、その究極に美化された感傷的な美術にある。
空や木々といった自然だけでなく、普段だれも関心を持たない都会のありふれた風景を、ただの電柱や電車や近代的なビルを、生きている世界そのものすべてが美しく光り輝いて至高の価値を持つかのように描いて見せる。
その記憶の中で美化された幻想的な風景が、「喪失」していく主人公の心に寄り添い、これまた感傷的な音楽とともにその美しい映像で、甘やかに包み込んでいく。
取り戻すことのできない「喪失」という現実が主人公に突き付けられているからこそ、この究極に美化された世界の美しさは、より残酷にその美しさを際立たせている。

しかし「君の名は。」はハッピーエンドでは終わってしまうがゆえに、過剰なまでに感傷的だった新海美術の利点は薄まってしまっている、いや失われてしまっている気がしてならないのだ。

「秒速5センチメートル」のラストに納得いかないという人が多数いることは理解している。
あのラストにエクスタシーを感じる自分が少数派なんだろうということも。
それでもあれこそが自分が好きな「新海誠」であり「新海誠」そのものであると信じている。

個人的見解を提示するならば、「ほしのこえ」「秒速5センチメートル」を新海濃度100%とするなら
「言の葉の庭」が60、「星を追うこども」が50、「君の名は。」は30%くらいといったところだろうか。

個人制作のアマチュア作品、少数スタッフによる小規模な短編、多くのスタッフを要する大規模長編と作り方や作品に求められる商業成功のライン等、作品によってバラバラなので、作家性の露出が作品によって変動することは、当然ではあろう。

しかし「君の名は。」がある意味でメジャー、大衆に向けた作品として作られた結果、作家性の露出を抑制されたことで、上手くヒットにつながったかとも言えなくもない。あるいは意図的にそうすることを課して作品作りに臨んだのかもしれない。

どちらにしても、「君の名は。」が作品的にも商業的にも作家的にも大きな転換点となることは、間違いがないのだろう。