2013/12/14

かぐや姫の物語 (内容に全く触れていない)感想

だいぶ遅くなりましたがようやく見てまいりました。

まず最初に結論から

みたかった「高畑勲」の作品をみることができた、それだけで感無量

です。

いやもうほんとそれだけで十分、というくらい満足でした。
見に行く前から、そうなってくれるだろうなーという期待はあったのだけれど期待通りでよかったです。

さて本作に行く前に、高畑勲について言及せねばなるまいと思います。
というか本記事はむしろかぐや姫にかこつけた高畑勲語りです。

まず前作であるところの1999年公開の「となりの山田くん」
ジブリの中でも指折りの失敗作と思われている方が多いのではないかと思います。
当時もいまも「なんで山田くん?」と思わせるくらいどうしてこれを題材にして映画を作っちゃったんだ、という問題作でした。
この作品で使われた水彩調のデジタル彩色でセル絵とは違うアニメーションを作るという手法は、かぐや姫の物語でも採用されていたわけですが、その技術の革新性と異常な手間とカネのかかり具合にもかかわらず、その素材が「山田くん」であったがためにまったく見向きもされず、評価もほとんどされまぜんでした。

高畑勲という監督はあくまで演出家であり、宮崎駿と違い自分で絵を描くことをしない。
しかし、宮崎駿が、絵作りという点で、ある程度確立された手法を繰り返し映画を作っていたのに対して、高畑勲は常に新しい手法を導入してそれを試しながら、作品を作ってきた。
高畑勲は常に革新的で日本のアニメーションの表現の枠を広げることに最も貢献した存在だったといっていい。
今では、TVアニメでも当たり前になったレイアウトシステムや細やかな日常描写、深い心情描写を先んじて確立したのは高畑勲だった。
「となりの山田くん」もまた、高畑勲らしい革新的な手法、技術でつくられた作品だった。
しかし、その映画の中身はよく知られた4コマ漫画の家族の日常を描くものだった。
だが、当時は気づくことができなかった先進性、革新性が実はここにもあった。

「4コマ漫画 の 家族 の 日常 を 描く」

4コマの前に「萌え」とつけて、家族を美少女とか女子高生に置き換えれば、今や普通になった深夜の日常系アニメそのままじゃないか。

当時「となりの山田くん」を見たときの自分の感想は今でもはっきりと覚えている。

こんな昭和然とした家族が今の時代に存在するわけない、家族のありふれた日常を描いているようで、既にそれ自体が失われた理想であり幻想であり、ファンタジーでしかないじゃないか。

そう思った。

そうして10年たって気づいてみたら、日常をファンタジーとして描くアニメが世に溢れかえってしまっっていた。
ああ、なんという先進性、当時だれもそんなことに気づけるはずもない。


やや脱線したので話を戻します。

「となりの山田くん」の作品の平凡を通り越した普通さと技術の革新性のアンバランスは、当時見ていて歯がゆかった。
そんなもん普通の観客に理解できるか!企画の段階でもうちょっと考えろ!
、と。

しかし、実のところ高畑監督の作品のすごいところは、平凡な普通のことをすごく普通にすごい技術を費やして描いているんだけど、普通はそれに気づけないってことなのだ。
小学生時代に見ていた「アルプスの少女ハイジ」や「赤毛のアン」の本当にどこの何がすごいのか、
自分が、「演出」というものを意識してアニメを見始めて二周ぐらい理解が深まってようやっとわかるようになったくらいだ
「となりの山田くん」だってそういう意味では「すごい」「平凡」な作品であることに違いはないのだが。

しかし、「火垂るの墓」以降高畑監督がジブリで作った三作、「おもひでぽろぽろ」「平成狸合戦ぽんぽこ」「となりの山田くん」この三作は正直、いずれもなんでこんな企画で作っちゃうかな?と疑問に思わざるをえないものだった。
自分自身これはどうなんだ?と思う一方で宮崎駿の評価と名声が上がり、世間に認知されているのに対し、そのジブリをもてはやすニワカに高畑監督の作品がハズレ扱いされることも気に食わなかったし、忸怩たるものがあった、「ハイジ」や「アン」のすごさが理解できるようになっていただけに
(ああええ、まあ嫌な自意識だとわかっていますよ、こういうのは)

そして「となりの山田くん」以降、これが「高畑勲」なんだ、と、そう言える作品をもう一度作ってもらいたい、そういう思いがくすぶる一方で、なんの音沙汰もなく時が過ぎていき、このままもう引退なのかなあと半ば諦めていた頃に、ついに沈黙を破って登場したのが、「かぐや姫の物語」だったというわけです。

で、今回「山田くん」と同じ手法を使っていても、古典であり、おとぎ話然とした竹取物語を題材にすることで、水彩調、絵本風の絵をそのまま動かすということで、題材と手法がマッチしていて、観客から見てもどうしてこういう絵作りなのか、というのがすんなり理解できる企画になっていたのは非常に良かったと思う。
その上で、誰もが物語の筋を知っている古典を題材にすることで、「平凡」「普通」であってもそれが許容される題材でもある。
古典や誰もが知る名作を題材にする。
これが結局、高畑勲が作品を作る上で最も必要な条件であったわけだ。

遅きに失した感はある
けれど「となりの山田くん」が最後の作品にならなくてよかった、本当によかった
自分が尊敬するみたかった高畑勲をみることができて本当に良かった。

「かぐや姫の物語」という作品は自分にとってそういう作品です。




追記

「風立ちぬ」が「見たくなかった宮崎駿」だったのとは真逆の感想なのは、皮肉というかなんというか・・・







おまけ

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サンアロー
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↑この侍女の映画における存在感と役割はすごいよね、映画見ているあいだこの子からずっと目が離せなかった