2015/07/14

バケモノの子 感想

といいつつ、それにかこつけた細田守語りですです


以前からわかっていたことだけど、今回本当に確信したのは、細田監督は少年キャラ、というかショタキャラを描くときが一番イキイキしている。
サマーウォーズの時もそうだし、おおかみこどもの時もそうだったけど、今回はメインがショタとオヤジの関係だからな!
だがしかしその楽しいオヤジとショタのパートは前半で終了してしまうのでちょっと残念ではある。
結果、ガキみたいなかわいいオヤジが7割くらい占める映画になっちゃったけど、まあそれはそれで需要はありそうだからいいんじゃないですかね!
細田監督がいよいよ自分というか本性だしてきたんじゃないかな、これは、という感じで、見てて楽しくなったというかうれしくなった。

そして今回見ていて確信を得た、というか、もしかして今までカン違いしてたのかもしれないと思ったことがもうひとつ。
それは細田監督って女の子を魅力的に描く気がないんじゃないのか、ということ。
バケモノの子でも、一応ヒロインポジションの女の子が途中から登場するのだけれど、この子にまったく魅力を感じない。
なんというか添え物感が半端ない。
実のところいなくても映画自体は成立するなとすら思える。

サマーウォーズ、時をかける少女など細田作品での女性キャラは意外と評判がよくなかったりする。
魅力がないというより嫌われる、ちょっと癇に障るところのある女性キャラが出てくる。
自分も正直好きになれないところがあって、それは単に細田監督の女性の好みが合わないだけかと思っていたが、実はそれはカン違いだったんじゃないかと考えるようになった。

そもそも細田監督は女の子を描くことに興味がないのではないのかと。
女の子のキャラを描くときに、女の子への理想や妄想や趣味を仮託すれば、自然に魅力的にうつるものだと思う。
それが多少趣味が悪かったとしても、ほらこの子のこういう欠点もかわいいでしょ?となれば魅力的に描かれるのが必然なのではないかと。
しかし最初から女の子を描くことに興味がない、女の子に自分の理想や妄想や趣味を仮託する気がないのだと、と仮定するならば、その描かれる女性はフラットな存在で、魅力がないのは当然といえる。

そんなばかな、と思われるかもしれないが、ここで二つ証拠を提示したい。

この映画後半のアクションシーンでヒロイン楓が二度転ぶ。
アクションシーンで、ヒロインを連れて逃げるというのはお約束だし、危機感切迫感の演出として転ぶシーンがはいるのもパターンではあると思う。
でも二回必要だろうか?
一度なら転んだヒロインを気遣う主人公のやさしさも強調されてプラスになるが、二度転ばれると、「うわ、この女、足手まとい」という印象を見る側は感じてしまう。
なのになぜ二度転ばせるのか?すなわち深層意識でこのヒロインを不要な存在、足手まとい、と思っているからではないのか。

もうひとつ、気づいて、あ、とおもってしまったのだが、たくさんのモブでケモノキャラが出てくるがその中で、ケモノ耳少女がほとんど印象に残らない。
だいたいはオヤジっぽいキャラがほとんど。
男くさい社会を描きたいからかもしれないが、こんだけケモノキャラを出しているにもかかわらずモブでの遊びや賑やかし程度にもケモ耳少女キャラが目立たないようになっているのは、無意識的にそうなったのか逆に作為的なものを感じてしまう。

ショタキャラに対する思い入れ情熱のつよさが、細田作品から隠しようがなくにじみ出ている、ならばその表裏として、女に対する興味関心がまったくなくてもおかしくはないのではないか、というのは自分の中では盲点だった。
自分が思う以上に細田監督はガチやったんや!

この映画に女はいらんかった。
むしろそのポジションは年下の男の子にすべきだった。
ちょうど九太と熊徹と対になるように、そしたらこの映画は完璧だったかもしれない!

今回あの女を出さなければいけなかったのは、「体裁としての恋愛要素」が映画を売るため、企画を通すために必要だったからなのかもしれないない

とはいえ、今回の映画で細田監督が自分の描きたいこと、やりたいことのかなりの部分を自由にさらけ出してきた印象がある。
未だに自分は細田守の最高傑作はウォーゲームだと思っているのだけれど、よく考えれば、あの作品も本編の女性キャラが作品の中心から意図的に排除されていたと、いまさら気づく。

細田作品に女はいらない。

ウォーゲームを超える純度100%の細田守まで後一歩。

そんな確信と期待を思わせる作品でした。