2017/02/09

「けものフレンズ」からうける味わったことのない感覚

今、けものフレンズが最高に面白い。

現時点で5話放映済みといったところで、ネット界隈でも
「すごーい」「たーのしー」と妙な盛り上がりを見せ拡散中。
様々な作品考察、感想など日々あげられているのですが
個人的にも、この「けものフレンズ」という作品に感じている魅力とはなんなのかを
まとめておこうと思います。

自分が「けものフレンズ」という作品に感じる魅力、それを一言でまとめてしまうと

「今まで味わったことのない感覚を味わえる」

といったところでしょうか。

ではその味わったことのない感覚がなんなのか、順をおって説明していきたいと思います。

「けものフレンズ」の1話をみた段階での予備知識として持っていたものは、原作はアプリゲームですでにサービスが終了している。動物の擬人化美少女ものである、という二点だけ。
ほぼ何も知らない状況で1話を見た時の感想としては、「あ、こりゃダメなアニメだ」だった。
この内容のなさで30分枠でやるのかというテンポ、CGはやすっぽい。サーバルちゃんはお世辞にも演技巧いとは言えない。見ているとだんだん頭が悪くなっていく、ゆるさとほわほわさ。

正直、1話で切ってもおかしくない中身と出来だったといっても過言ではなかった。
しかし、このゆるさとほわほわした感覚、疲れた体と心には心地いい気がして、なんとなく2話もみてしまうことになる。

2話前半、1話に続きゆるゆるほわほわ、面白いかといえばそんなに面白くない。
しかし後半壊れたバスを見つけ、フレンズたちと協力してバスを直す。が、バッテリーが切れていて充電する必要がある、と3話へと続く。この流れの中で、ひとつ気づく。
この物語、作品の構造が、未知の世界を探検していく冒険ものであるということに。
そして謎解きのアドベンチャーRPGのようなクエストの発生とクリア、目的の達成を繰り返しあるいは連鎖させていくことで進んでいるのだということ。
それがわかると、2話が少し面白く感じてくる。

そして3話、2話のバスに続き、朽ちて使われなくなったロープウエイが登場する。2話で感じた冒険RPG的要素の面白さはさらに補強れ、さらに、ここに至って、どうもこのジャパリパークはすでに廃墟になっているのではないか、という疑惑が明確になってくる。
遊園地の廃墟がモノクロで映し出されるEDが、すでにそれを暗示しており、その疑惑を補強し、それまで、それを暗示する情報が、3話までの間にちりばめられていたことに気づく。

けもの少女がゆるゆるほわほわなんかしている表層のイメージで隠蔽し、徐々にその作品世界の様相を明らかにしていく。
その作品構造の裏が実は、本格的なSFであり冒険ものであることを、3話まで小出しにされ情報から類推し、気づいたものだけが気づくように配置されている。
その構成の巧みさにしびれる。
しかしあくまでこの作品の主体は、けもの少女のゆるゆるほわほわの、「すごーい」「たーのしー」に集約される。
SF的冒険もの的これらの要素はその従であることは間違いないはずだ。

表層であり主体であるかわいいけもの少女のゆるゆるほわほわ、それと同時不意に伺わせる不穏なイメージと本格SFと冒険もののハードな側面。
この2つを両立した作品を少なくとも自分は知らない。
故に「味わったことのない感覚」をおぼえるのだと思う。

そしてもう一点、この作品でしか味わったことのない感覚、それはヒトとけものの関係性描き方にある。

主人公であるかばんちゃんはヒトであるらしい。
ヒトなのかヒトが「フレンズ化」した存在なのか、かばんちゃんが記憶をなくしているためにそこははっきりと明示されていない。
しかし、かばんちゃんはフレンズたちにとってはおなじ「けもの」であり「フレンズ」であると認識されている。
かばんちゃん自身も自分が「人間である」という自覚がなく、サーバルちゃんと同じけもの、フレンズであると思っている。

これは、非常に特別で重要なことなのではないかと思う。

人語を解する動物や擬人化された動物、獣人が出てくる作品というのは少なくない。
そういった作品の中で、登場する「人間」は、どちらかといえば、けものたちにとって、悪であり自分たちの領域を犯すあるいは奪う存在として描かれることが多いのではないか。
人間とけものが良好な関係にあってもなお、けものと人間の間にある差異や壁を描き、その境界、対立の克服を謳ったり願ったりするものが多くを占めているという印象が強い。
そこにはヒト種が、自然界のルールから外れ、環境破壊や絶滅種を生む原因になっている業を背負ってしまっているがゆえに、いわゆるエコロジーのテーマ的、思想的範疇から作品や世界観が呪縛されてしまっているからではないかと考えられる。

「フレンズによって得意なことは違うから」
サーバルちゃんがかばんちゃんにかけるこの言葉が象徴するように「けものフレンズ」の作品世界において、フレンズは「フレンズ化」する前の動物だった時の特性を持ち合わせていることが、描かれている。
そしてヒトである(と思われる)かばんちゃんは、その特性である「知恵」を使ったり、提供しながら問題を解決していく。
そしてそのたびに周りのフレンズたちに「すごーい」と感心され、肯定される。
ヒトがヒトであることをけものに褒められる。
「あなたは○○が得意なフレンズなんだね、すごーい!」と。

「けものはいてものけものはいない」というOPテーマの歌詞にあるとおり、他作品で「のけもの」として扱われる「ヒト」は、「けものフレンズ」の世界では同じけものの仲間「フレンズ」として同列に扱われている。
そこに対立構造や壁、境界は存在していないのだ。

「ヒトと動物が共生する世界」はこれまで、多くの作品で理想、遠い夢とされ、それを阻害する人間と動物の対立構造や壁を克服するものとして描かれてきた。
しかし「けものフレンズ」はその「理想の世界」を描いている。
それは今まで描かれたことのないヒトが望んだユートピアなのか?それはまだわからない。

ただ、今、少なくとも自分は、ここに描かれた世界に、味わったことのない不思議な感覚を味わっている。

それなりに生きて、それなりに色んな作品を見てきたつもりでも
まだ、味わったことのない感覚があった。
その驚きと興奮が「けものフレンズ」にはある。

故に「けものフレンズ」という作品に魅了されてやまないのだ。

2016/12/26

「この世界の片隅に」
公開から一か月以上、見てからだいぶ間があきましたが、そろそろいいかなーというところで感想です。

巧すぎる。
すごくいい映画。
でも遠すぎる。

超絶短くまとめると以上です。

見た直後は、いい映画を見たという以上の感想が出てこなかった。
だっていい映画としか言いようがないんだもの。

いい映画だと思えるのは、それがこの映画が巧すぎるからでもある。
技術的に優れているところがあるなら、ここのあそこがすごかったよかったという感想がでてくるが、この映画は全編が細部に至るまで極まっているうえで、その技術の高さを誇示するような作り方をしていない。
巧すぎるがゆえに巧いことを気にさせない。
映画という世界への没入を阻害させない、正しい技術の使い方がなされているので、素人がとやかく言うのはおこがましいのではないかと思えてしまう。

しかし戦争とその中で生きる人々の日常という題材は、自分にとって遠すぎる。
広島・呉という舞台もなじみがなく、登場人物の立ち位置も、自分からは遠い。
遠い場所、違う時代生活している人々、けれどそこで何が起きるかは知っている。
遠い世界知らない時代でありながら、映画を見ている間は近くに感じつつも、そこであったこと、起きたことに、そこから遠いところにいる自分が言えることなんてなにかあるのだろうか、と。
共感も反発も自分の中に見出すことはできなかった。
なにか感想を持つには遠すぎるのだ。

故に「いい映画」だったいう感想しか自分の中からはでてこなかった。


ここから余談。

自分にとっての不幸は、片渕監督を知りすぎた上で「この世界の片隅に」を見てしまったことなのではないかと思う。
もし、事前になにも知らずにこの映画を見ていれば、もっと別の感じ方をしたかもしれないし、
すごい映画をみた!傑作だ!みんな見よう!
と騒いだかもしれない。
が、それは「マイマイ新子」の時に通り過ぎた地点だったので。

片渕監督のことを意識するようになったのは今は亡き名作劇場枠で制作された「名犬ラッシー」でした(古参アピール)
「名犬ラッシー」の緻密で丁寧な少年少女の人物描写心情描写に、この人が名作劇場の監督続けてくれたら名作劇場は安泰だ!と当時そんなこと思っていましたが、すでに名作劇場の枠は命脈が尽きていてまもなく消滅してしまいました。

その後「アリーテ姫」を映画祭の上映で見る幸運に恵まれ、その時点で片渕監督が高畑勲監督の後継足りうる実力と可能性を持った存在ではないかと期待を寄せるようになった。
そして「マイマイ新子」に至るわけですが、ご存じの方は多いかもしれませんが、「マイマイ新子」は興行的には惨敗でした。

「マイマイ新子」はその傑作ぶりと大惨敗の不幸ぶりで、一部熱心なファンを獲得し地道な上映運動などを経てじわじわと拡散していき、さらにそこから今回の「この世界の片隅に」のクラウドファンディングでの制作実現へと見事な復活劇を演じて見せたわけです。

ちなみに自分はこのクラウドファンディングに出資していません。
期待する監督、制作者の出資して応援する。ということ自体は意義も価値もあることでそれ自体は素晴らしいことであり否定はしない。
ただ、個人的な考えとして「期待した監督に金出して作ってもらった映画が自分の期待を裏切った時や望むものと違った時が怖い」「出資してしまったら出来上がった映画の感想を素直に言えなくなるかもしれない」というところから二の足を踏んで出資をためらってしまった。
と、同時に片渕監督にはすでにマイマイ新子で獲得した熱心で活動的なファンが多数いるので、もう安泰なんじゃないのか、と。
ある意味この映画は「マイマイ新子」の復讐戦であり、その戦闘要員として参加していれば逆に祭りとして、もっと楽しめたかもしれないのだけれどその道は選ばなかったので、もう見る前から気持ちは複雑。

そういうなんやかんやを含めた過程を経て「この世界の片隅に」は出資したとかしないとか関係なく「素直な感想」なんてあるわけがない状態で、見に行ったわけです。

そうして見て出てきた感想は、実にフラットに
「いい映画だった」
というシンプルなものでした。


2016/12/18

ViVid Strike!総評&感想

ViVid Strike!
全話視聴完了ということで、総評&感想です。

先に簡単簡潔に総評を述べるなら

始まる前の不安と不信、期待の低さをぬぐうくらいには、面白かったし意外とよかった。
なのはシリーズの末席においても遜色のない作品足りえたのではないだろうか。
でも、おしい。

です。


さて本論に行く前に、この作品に至る経緯を簡単に。

そもそもこの作品、リリカルなのはシリーズのひとつである「リリカルなのはⅴivid」の続編ということに一応なる。
なるのだけれど、「なのはvivid」自体は実際には完結していない。
漫画版は現在も連載中であり、アニメは漫画版の途中までしか制作されていない。

その上で、「なのはvivid」の世界の時間軸を少し先に進めて、主人公を新キャラに変えての新作、ということになる。
しかも伝統の「リリカルなのは」の冠を外して。
製作発表時、正直、いったい何がどうなってこうなったのか困惑したというのが、正直なところだ。

「なのは」をタイトルから外したことで、なのはやフェイトを作品にだす意思がないのだろうということは想像できたし、メインヒロイン二人のキャストが、キングレコードの売り出し中の水瀬いのりと小倉唯ということで、世代交代を進めようという意図なのだろうということも想像できた。

しかし問題は、キングレコード、制作サイドに対する不信感をぬぐえない、というところにあった。
なぜ「なのはvivid」の二期はやらないのか、ソフトがなぜ発売されないのか(この時点ではまだBOXの発売が発表になっていなかった)
劇場版3rdはどうなっているのか。
そして田村ゆかりがキングレコードを離籍して間もない、このタイミングで、「なのは」を冠しない「なのはシリーズ」をやるという意味はなんなのか等々。

どうも表にでてこない「大人の事情」が渦巻いていて、なにやらいびつなことになっているのではないか、という不信と不安だらけで、口を開けば毒を吐きそうになるので、とりあえずここは静観して結果を見届けようと、ここまで黙ってきました。


といったところで、全話見終わったので感想です。(前置き長い)


(以下ネタバレ含みます)


11話で
リンネに
勝って欲しかったああああああああああああああ!!!!!!!!!!!!!!!!!!!

と強く思ってしまうくらいに、なんだかんだでこの作品途中から楽しんでみていましたw

最初に、おもしれえと思ってしまったのは、やはり問題の4話。
キャラの暗い過去でいじめられていた、というのはままある。
で、そういうのを見せられて、視聴者側がそのいじめっ子ボコりてえ、氏ねとか、思ってしまうのもよくあることではないかと思う。
でも、そのいじめられていたキャラが本当に復讐して、いじめっこをボコってしまう、て普通やんないだろ!!
という、予想外の面白さが発生したのが、まず第一段階

そして8話。
リンネvsヴィヴィオ、新シリーズの主人公対全シリーズの主人公
この後にはフーカvsリンネのカードが控えてることを考えると、ヴィヴィオがかませ役を担わされて敗北となるのが、セオリーだろうと思うのが自然だろう。
ところがこれがセオリー通りにいかずヴィヴィオが勝ってしまう。
この時点で予想外の事態が発生したの二回目、これがが第二段階となる。

こうなると、リンネvsフーカの勝敗についても予想どおりにいくとは限らなくなる。
ぬぐえぬ過去と罪を背負って苦悩を抱えるリンネを救済するために、フーカがリンネに戦って勝つ。
少年漫画的セオリーなら、間違いなくフーカが勝つのだけれど、いままでセオリーを二回外されているために、本当にセオリー通りにいくかあやしくなる。
何よりフーカが格闘技初めて4ヶ月とか言ってるのを見ると、ヴィヴィオに二回負けて、作品上でもぽっとでの印象で何かを積み上げて来たものがあるようには思えないくらいに描写の薄いフーカにリンネが負けるのは、いまいち納得できないし、なによりリンネがみじめすぎる。
なので超個人的には、リンネに勝って欲しい、リンネが勝つとこが見たい、と思ってしまう。
この時点で作り手の術中にはまっているとも言えなくもないくらいに、作品を楽しんでしまっているといえるだろう。

しかし、結果としてリンネが敗北して、第三段階には至らなかったのが残念でならない。
三度目のセオリー破りがあれば、自分はこの作品をもっと高く評価したかもしれない。

とはいえリンネVSフーカは最後までどちらが勝ってもおかしくない、予想がつかないバトルになってハラハラドキドキがあって面白かったことは事実だ。
それもこれも、予想ができない、予想が外れるという前段階を築くことができたからだろう。


結局終わってみれば、女の子同士が思いを伝えるために拳で語り、友情を深めるという、無印なのはの骨子を形を変えて再演し、リリカルなのはシリーズの一作として通底したテーマを内包していると思わせるに足る作品になったといえるのではないかと思う。
何よりなのはシリーズが好きな人間にとって、「ストライク」かどうかはさておき、「こういうのが見たい」というところを大きく外した作品にはならなかったとは思う。

ただ惜しいなあと思う点もある。
新キャラ、小倉唯。水瀬いのりキングの若手ホープを売り込むことがこの作品の至上命題であるなら、旧キャラの出番はもっと少なくてよかったのではないかという点。

正直始まる前は、旧キャラはライバルポジションで話にそこまで大きくかかわらないと思っていたのだけれど、ヴィヴィオの存在はなんだかんだで大きく、「なのはvivid」を前提知識として知らなければ作品をより楽しむうえでは厳しいのではないかと感じてしまう。
なのはシリーズをよく知らない人が見て楽しめたのかどうかちょっと心配ではある。

ともあれ
この作品が大好きななのはシリーズの鬼子にならずに済んで、正直ほっとしている。
これで、劇場版3rdへのはずみになれば、なお良いのだけれど。



その他余談。

中途見ていてこの作品が随所に「はじめの一歩」リスペクトが仕込まれているように見えて、そこも見ていて面白かった。
リンネがハードパンチャーで肉体に恵まれている一歩のスタイルなのに対して、ヴィヴィオが非力で肉体的に恵まれていないが、あて感と目の良さに根差して、カウンターヒット主体の宮田タイプ、その上フリッカー使いの間柴のハイブリッドで、一歩対宮田(プラス間柴)の仮想対戦を見ているようだった。
またリンネがコーチとの厳しい特訓の積み重ねの上に仕込まれたがゆえに無意識の上に放つことのできた一撃などは、まさに鴨川会長と一歩の師弟関係そのもの。

どんだけ一歩好きなんだよ、この作品w

余談その2

リンネvsヴィヴィオ戦
持って生まれた才能、ギフトの差、違い、そのうえでの努力の積み重ねの上でわかれる勝敗。
結果だけ見れば、肉体的なギフトに恵まれたリンネはヴィヴィオにとって勝たなければ作品のテーマが破たんしてしまう相手だったんだよなあと。
ヴィヴィオは格闘技が好きだけれど、肉体的には格闘技向きではない、それでも強くなるためには、勝つためにはどうするべきか、という中で自身の格闘スタイルを確立していく過程を描いているのが漫画版なわけで、リンネvsヴィヴィオは漫画版で到達していなかったヴィヴィオの格闘スタイルの到達点を見ることができた、という点でもリンネvsヴィヴィオはシリーズを追ってみている身としては熱かったのだけれど、ここでそれ見せてどうすんねん、という気がしなくもない。

でも才能も積み重ねた努力もあるリンネが、4ヶ月のフーカに負けるのはやっぱり納得いかない。

やっぱりリンネに勝ってほしかたああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああ


2016/09/05

どうやらここは新海誠がメジャー作家になる世界線のようです。

*御注意*

本記事には、「君の名は。」及び新海誠監督の過去作品に関する重大なネタバレが含まれます。
また記事は、新海作品を初期から見てきた人間による見解が主となります。





先日、新海誠監督の最新作「君の名は。」を見てまいりました。
公開してからしばらくたっていたので、初日から大入りで大ヒットしているという話を耳にし、新海作品を初期から見ていた人間としては、自分の知らぬ間になんぞ世界線でも変わったのかと正直かなり戸惑っていました。


参考:夏の終わりに『君の名は。』現象勃発! その「前代未聞」度を検証する http://a.msn.com/07/ja-jp/AAihRGo?ocid=st

言の葉の庭まで、マイナーメジャーくらいのポジションで、世間的には作品も名前もほとんど知られていなかった監督のオリジナル作品が突然大ヒットしているというのを、東宝配給による公開スクリーンの多さや、効果的な宣伝というだけでは正直説明しきれないのではないだろうか。

で、その戸惑い、疑問に対する回答の一つとしては、映画のラストを見て理解できた。

「君の名は。」のラストは「秒速5センチメートル」と真逆になっている。
秒速のバッドエンドだったラストが君の名では、そのままハッピーエンドに描きかえられている。

強い記憶と思いを共有した二人の男女が、時間と距離に阻まれ、互いを喪失していく。
この新海作品で繰り返し描かれてきたモチーフは、君の名でも繰り返される。
しかし、過去作では、その喪失されたものが回復されることがなかったのに対して「君の名は。」では、二人は再会し、喪失を回復する。
まさにハッピーエンドだ。

このラストに、多くの観客は安堵し幸福に満たされると思う。
バッドエンドよりハッピーエンドのほうが好まれる。
観客の満足度も高かろう。
「大衆向け」というのならば、このラストは当然であり、メジャーになる、売れる作品を目指すというのなら、このラストは正解なのだろう。

故にこの現在の大ヒット状況は、観客の満足度、口コミという観点から、なるほど、と理解できる。



でも、でもでもでもでもでもでも
言わせてくれ、たぶん、初めて「君の名は。」で新海作品を見た人には、あれが普通で当たり前に映るだろうけど、違う、違うんだ。
俺の好きな新海誠は違うんだ。
最高傑作は、真逆のバッドエンドの「秒速5センチメートル」で、バッドエンドだから最高なんだ。

新海誠の真骨頂の一つは、その究極に美化された感傷的な美術にある。
空や木々といった自然だけでなく、普段だれも関心を持たない都会のありふれた風景を、ただの電柱や電車や近代的なビルを、生きている世界そのものすべてが美しく光り輝いて至高の価値を持つかのように描いて見せる。
その記憶の中で美化された幻想的な風景が、「喪失」していく主人公の心に寄り添い、これまた感傷的な音楽とともにその美しい映像で、甘やかに包み込んでいく。
取り戻すことのできない「喪失」という現実が主人公に突き付けられているからこそ、この究極に美化された世界の美しさは、より残酷にその美しさを際立たせている。

しかし「君の名は。」はハッピーエンドでは終わってしまうがゆえに、過剰なまでに感傷的だった新海美術の利点は薄まってしまっている、いや失われてしまっている気がしてならないのだ。

「秒速5センチメートル」のラストに納得いかないという人が多数いることは理解している。
あのラストにエクスタシーを感じる自分が少数派なんだろうということも。
それでもあれこそが自分が好きな「新海誠」であり「新海誠」そのものであると信じている。

個人的見解を提示するならば、「ほしのこえ」「秒速5センチメートル」を新海濃度100%とするなら
「言の葉の庭」が60、「星を追うこども」が50、「君の名は。」は30%くらいといったところだろうか。

個人制作のアマチュア作品、少数スタッフによる小規模な短編、多くのスタッフを要する大規模長編と作り方や作品に求められる商業成功のライン等、作品によってバラバラなので、作家性の露出が作品によって変動することは、当然ではあろう。

しかし「君の名は。」がある意味でメジャー、大衆に向けた作品として作られた結果、作家性の露出を抑制されたことで、上手くヒットにつながったかとも言えなくもない。あるいは意図的にそうすることを課して作品作りに臨んだのかもしれない。

どちらにしても、「君の名は。」が作品的にも商業的にも作家的にも大きな転換点となることは、間違いがないのだろう。






2016/08/02

シン・ゴジラ見た

シン・ゴジラ見た!文句なしの100点!
見終わった後、口元がにやけてしょうがなかった。
満足に一言に尽きた。

ということでものすごく久しぶりに語りたいゲージが上がったので、まとめておこうと思います。
ちなみに本編の感想ではありません。



シン・ゴジラの監督が庵野秀明であるという報を知ったとき、思ったことは
「とりあえず見に行く、ゴジラというタイトルだけでめんどくさいオタク(自分含む)がわんさかわいてきてきっと喧々諤々の論争を繰り広げるだろうけど、ゴジラというタイトルにさほど思い入れのない自分は庵野作品として楽しめれば、それで十分」
というスタンスで、過渡に期待せず、かといって不安に思うこともなく公開を楽しみにしていたという感じでした。
ぶっちゃけて言えば今回のシン・ゴジラが庵野監督でなければ、見に行くことはなかったかもしれない。

で、結果としては、過渡に期待していなかったのに、ほとんど期待通りの「見たかったもの」がフルコースで出てきてもう、最高としか言いようがない。

その「見たかったもの」を端的に言ってしまえば、金子修介監督の手掛けた平成ガメラ三部作のコンセプトをゴジラでやる。
これに尽きるのだけれど、ほとんどそれが期待通りに出てきてある意味では予想外だった。
なぜならそれは、あまりにもド直球で正攻法すぎるので、やらないんじゃないかなあと。
(むしろ悪いほうの予想として、対ゴジラの対策チームなり決戦兵器が出てきてエヴァのセルフパロディみたいになるんじゃないかという危惧だけはあったのだけれど、そうならなくて本当によかった)

平成ガメラ三部作のコンセプトとは、現実の日本に巨大怪獣が現れたらどうなるのか、というシミュレーションをしてリアルに描くというもので、当時、アニメ業界に浸透してたリアリズム至上主義的な傾向の流れの中で、怪獣映画でそれをやったらどうなるだろう、やってやろうというムードの中からでてきたものだったのではないかと記憶している。
ただこのコンセプトは、本来はガメラよりゴジラのほうが向いているが、ガメラでやらざるおえなかったという趣旨のコメントがでていたかと思う。
実際、ガメラという怪獣のキャラクター性、過去のシリーズの作品性とを鑑みると、シミュレーションとかリアリズムとかといったコンセプトを当てはめるには多少無理があったことは否めない。
しかし、彼らが当時作りたっかたもの、そして自分たち(主にオタク)が見たかった「リアルな怪獣映画」がそこにはあり、平成ガメラ三部作は支持された。

そのガメラの特技監督をしていた樋口真嗣、縁の深い庵野秀明がゴジラを作ることになり、平成ガメラの一作目から数えて20年を超えて、ゴジラを冠するタイトルで「現実の日本に巨大怪獣が現れたらどうなるのか」「リアルな怪獣映画」を実現して見せた。

という、この経緯がもうすでに燃える。
平成ガメラ三部作に熱中した人ならわかってくれると思う。


あとはもうきっちりかっちりやりたいこと、やるべきことをやって、余計なことは排除したそんな映画で、ほとんど文句のつけようがない。

あえて付け加えるなら、シン・ゴジラで見てていいなあ、と思ったことのひとつは画の美しさ、カッコよさ。
そこは庵野監督なら当然、と思えるところなんだけど、見終わったとあとにふと気づいたのは、夜のシーンが少ないということ。
特撮作品ではありがちなことだけれど、セットや特撮のチープさをうまくごまかすために画面を暗くしたり、夜のシーンが多かったりするのにこれが全く逆。
日中のシーンが大半で全体的に画面が明るい。

街や空が白く明るい。その中に黒い異物のゴジラがそこにいる。
画として映える、ゴジラの存在感
これが美しかった。

今の日本国内の特撮の技術レベルがどうなっているのか正直よく知らないのだけれど
シン・ゴジラ見てて画面のチープさ安っぽさに覚めるということはまずなかった、そういう点においても至福の二時間でした。




2015/10/26

アイドルマスターシンデレラガールズ2ndシーズン 感想

最終回からちょい空きましたが、私的感想まとめておきます。

1stシーズンで感じていた感じていた違和感のひとつ
(参照:至好回路雑記帳: アイドルマスターシンデレラガールズ(ファーストシーズン) 感想
は、この作品、ストーリーの中核があくまで島村卯月に置かれていて、24話で卯月がS(miel)ING!を歌うクライマックスに向けて、すべて計算されて構成されていた、というこっとがはっきりとわかり納得した。
いや納得したというより、おそれいったというか舌を巻いた。
しぶりんとの出会い、1stシーズンでの未央の失敗から成長といった諸々のエピソードが24話に、向けての伏線、仕込みだったのかということと、S(miel)ING!という卯月のもともとの持ち歌の歌詞に含まれた意味をきちっとすくい上げて構成し、強い意思と目的を持ってこの物語が語られていたということに。

しかし、その完成度の高い構成、かなり計算された物語であるがゆえに、まったく別の違和感、疑問がわいてきてしまった。

2ndシーズンに入ってから「シンデレラ」の童話になぞらえて、「お城」「舞踏会」「魔法」「灰かぶり」というキーワードを使って、アイドルという存在や卯月の置かれた状況について描かれる場面が度々ある。
普通の女の子である卯月がキラキラ輝くための「魔法」、女の子があこがれる「舞踏会」、舞踏会が開かれる大きくてきれいな「お城」
プロデューサーという魔法使いに「アイドルになる」という魔法をかけられ、女の子たちが舞踏会というステージに立ちキラキラ輝く。その舞踏会を用意する大きな事務所が「お城」といったところか。

しかしここで疑問がわく。
「シンデレラ」につきものの「意地悪な継母と姉」「王子様」はどこに行ってしまったのかと。
「意地悪な継母」が舞踏会への道を阻む障害、現実と解釈するなら、これは美城常務と解釈することもできる。
「継母」というキーワードを出さないのは、まあそこは察してくださいということで理解できるのでいいとして、では「王子様」は?となる

「王子様」は舞踏会に現れた見ず知らずの少女に心奪われ、「魔法」がとけ会場から消えたその少女をガラスの靴を手がかりに探し出し求婚する、というのが「シンデレラ」の一般的な物語だ。

では魔法がとけて灰かぶりに戻ってしまった卯月を救うのは?

シンデレラの童話になぞらえるならば、「王子様」役を担わなければならないのは、プロデューサーでもなく、周囲の仲間、アイドルたちでもなく、卯月の「ファン」でなければならないのではないのか?

プロデューサーや未央たち仲間の支えで自ら立ち直り、またステージに立つことができるようになる、という24話の流れは、もう一度「灰かぶり」が魔法を信じて魔法をかけられて舞踏会に戻っていく、ということであり、そこに「王子様」は不在である。
 これが、ファンの存在や声援がきっかけになって卯月が立ち直るという流れならば「ファン=王子様」という解釈が成り立つが、そうなってはいない。

24話で卯月がステージに立ち言葉をつまらせるシーン、仕事をしばらく休んでいて久しぶりにファンの前に姿を出して声をつまらせている、あのシーン。自分が卯月のファンならあそこで黙っていられるだろうか、あの状況で声援を発しないファンがいるだろうか。
卯月が歌いだしたとき、見守っていた仲間のアイドルたちが喜ぶリアクションが映されるが、本当にうれしいのはアイドルたちだけだっただろうか、あそこにいた卯月のファンたちのリアクションは?

あそこには「観客」はいても卯月の「ファン」はいない、下手をするとそう見えてしまいかねない。

ここのシーンにかぎらずシンデレラガールズという作品において、ファンの存在感は極力避けられ、物語の中核からは排除されている。
なぜそうなっているのかといえば、それはアイドルマスターというコンテンツの特徴に起因するものであるといえるだろう。
アイマスというシリーズ、コンテンツの特徴はプロデューサーとアイドルの関係を中心にすえられているところにある。
ゲームではプレイヤーはプロデューサー役であり、アニメにおいても視聴者の視点はプロデューサー視点にあることを重きに置かれている。
そのアイドルとプロデューサーの関係が物語の中核であることが求められ、そうであるが故にその外部は極力排除されている。


しかし普通の女の子がアイドルとしてキラキラ輝けるのは、魔法やお城や舞踏会のおかげだけなのだろうか。
シンデレラを見初めてくれる王子様=ファンの存在があって初めて「普通の女の子」でもキラキラ輝ける、輝き続けることができる。
アイドルという存在、あるいはアイドルというジャンルを考察するとき、それを支えるファンの存在というのは決して小さいものではない。

しかし、アイマスというコンテンツにおいてファン=プロデューサーであり、そうあらねばならない。
あくまでアイドルを支えるのはファンでありプレイヤーであり視聴者である「プロデューサー」でなければならない。
だからそれが分離して見えてしまうような描写はさけねばならない。
 アニメのシンデレラガールズはその不文律を忠実に守っている。
その不文律を守っているが故に突き詰めて構成した物語の中にどうしても「王子様」というピースをはめることができず、それをなかったこととして絵を完成させたが故のいびつさ、完全であるが故に感じてしまういびつさをのこしてしまったように思えてならない。

島村卯月というキャラは、個性的なキャラがひしめくシンデレラガールズの中で、「普通」である「個性がないのが個性」という特異的なポジションにある。
しかしそれはアニメ的にはヒロインの資質でもあり、没個性であるが故に物語の中心でいられる。
故に島村卯月がこの作品の主人公、中心として物語が構成されたのは必然であったと同時に、アイドルものというジャンルを作るうえで最適だったともいえる。
だが同時にアイマスというコンテンツのひとつの限界を垣間見せてしまったのかもしれない。

それでもアイドルマスターシンデレラガールズというアニメがすごい作品だと思うのは、すでにコンテンツとして巨大になりファン=プロデューサーさんたちの期待や思い入れを背負う「お城」になり、その「お城」のイメージ、権威を損なわないだけのものをつくり、アイドル=声優たちの個性を輝かせ今もまた魔法をかけ続けているからだ。

もしかしたら、シンデレラガールズは、アイマスの今を描ききった作品なのかもしれない。






2015/07/14

バケモノの子 感想

といいつつ、それにかこつけた細田守語りですです


以前からわかっていたことだけど、今回本当に確信したのは、細田監督は少年キャラ、というかショタキャラを描くときが一番イキイキしている。
サマーウォーズの時もそうだし、おおかみこどもの時もそうだったけど、今回はメインがショタとオヤジの関係だからな!
だがしかしその楽しいオヤジとショタのパートは前半で終了してしまうのでちょっと残念ではある。
結果、ガキみたいなかわいいオヤジが7割くらい占める映画になっちゃったけど、まあそれはそれで需要はありそうだからいいんじゃないですかね!
細田監督がいよいよ自分というか本性だしてきたんじゃないかな、これは、という感じで、見てて楽しくなったというかうれしくなった。

そして今回見ていて確信を得た、というか、もしかして今までカン違いしてたのかもしれないと思ったことがもうひとつ。
それは細田監督って女の子を魅力的に描く気がないんじゃないのか、ということ。
バケモノの子でも、一応ヒロインポジションの女の子が途中から登場するのだけれど、この子にまったく魅力を感じない。
なんというか添え物感が半端ない。
実のところいなくても映画自体は成立するなとすら思える。

サマーウォーズ、時をかける少女など細田作品での女性キャラは意外と評判がよくなかったりする。
魅力がないというより嫌われる、ちょっと癇に障るところのある女性キャラが出てくる。
自分も正直好きになれないところがあって、それは単に細田監督の女性の好みが合わないだけかと思っていたが、実はそれはカン違いだったんじゃないかと考えるようになった。

そもそも細田監督は女の子を描くことに興味がないのではないのかと。
女の子のキャラを描くときに、女の子への理想や妄想や趣味を仮託すれば、自然に魅力的にうつるものだと思う。
それが多少趣味が悪かったとしても、ほらこの子のこういう欠点もかわいいでしょ?となれば魅力的に描かれるのが必然なのではないかと。
しかし最初から女の子を描くことに興味がない、女の子に自分の理想や妄想や趣味を仮託する気がないのだと、と仮定するならば、その描かれる女性はフラットな存在で、魅力がないのは当然といえる。

そんなばかな、と思われるかもしれないが、ここで二つ証拠を提示したい。

この映画後半のアクションシーンでヒロイン楓が二度転ぶ。
アクションシーンで、ヒロインを連れて逃げるというのはお約束だし、危機感切迫感の演出として転ぶシーンがはいるのもパターンではあると思う。
でも二回必要だろうか?
一度なら転んだヒロインを気遣う主人公のやさしさも強調されてプラスになるが、二度転ばれると、「うわ、この女、足手まとい」という印象を見る側は感じてしまう。
なのになぜ二度転ばせるのか?すなわち深層意識でこのヒロインを不要な存在、足手まとい、と思っているからではないのか。

もうひとつ、気づいて、あ、とおもってしまったのだが、たくさんのモブでケモノキャラが出てくるがその中で、ケモノ耳少女がほとんど印象に残らない。
だいたいはオヤジっぽいキャラがほとんど。
男くさい社会を描きたいからかもしれないが、こんだけケモノキャラを出しているにもかかわらずモブでの遊びや賑やかし程度にもケモ耳少女キャラが目立たないようになっているのは、無意識的にそうなったのか逆に作為的なものを感じてしまう。

ショタキャラに対する思い入れ情熱のつよさが、細田作品から隠しようがなくにじみ出ている、ならばその表裏として、女に対する興味関心がまったくなくてもおかしくはないのではないか、というのは自分の中では盲点だった。
自分が思う以上に細田監督はガチやったんや!

この映画に女はいらんかった。
むしろそのポジションは年下の男の子にすべきだった。
ちょうど九太と熊徹と対になるように、そしたらこの映画は完璧だったかもしれない!

今回あの女を出さなければいけなかったのは、「体裁としての恋愛要素」が映画を売るため、企画を通すために必要だったからなのかもしれないない

とはいえ、今回の映画で細田監督が自分の描きたいこと、やりたいことのかなりの部分を自由にさらけ出してきた印象がある。
未だに自分は細田守の最高傑作はウォーゲームだと思っているのだけれど、よく考えれば、あの作品も本編の女性キャラが作品の中心から意図的に排除されていたと、いまさら気づく。

細田作品に女はいらない。

ウォーゲームを超える純度100%の細田守まで後一歩。

そんな確信と期待を思わせる作品でした。