2016/09/05

どうやらここは新海誠がメジャー作家になる世界線のようです。

*御注意*

本記事には、「君の名は。」及び新海誠監督の過去作品に関する重大なネタバレが含まれます。
また記事は、新海作品を初期から見てきた人間による見解が主となります。





先日、新海誠監督の最新作「君の名は。」を見てまいりました。
公開してからしばらくたっていたので、初日から大入りで大ヒットしているという話を耳にし、新海作品を初期から見ていた人間としては、自分の知らぬ間になんぞ世界線でも変わったのかと正直かなり戸惑っていました。


参考:夏の終わりに『君の名は。』現象勃発! その「前代未聞」度を検証する http://a.msn.com/07/ja-jp/AAihRGo?ocid=st

言の葉の庭まで、マイナーメジャーくらいのポジションで、世間的には作品も名前もほとんど知られていなかった監督のオリジナル作品が突然大ヒットしているというのを、東宝配給による公開スクリーンの多さや、効果的な宣伝というだけでは正直説明しきれないのではないだろうか。

で、その戸惑い、疑問に対する回答の一つとしては、映画のラストを見て理解できた。

「君の名は。」のラストは「秒速5センチメートル」と真逆になっている。
秒速のバッドエンドだったラストが君の名では、そのままハッピーエンドに描きかえられている。

強い記憶と思いを共有した二人の男女が、時間と距離に阻まれ、互いを喪失していく。
この新海作品で繰り返し描かれてきたモチーフは、君の名でも繰り返される。
しかし、過去作では、その喪失されたものが回復されることがなかったのに対して「君の名は。」では、二人は再会し、喪失を回復する。
まさにハッピーエンドだ。

このラストに、多くの観客は安堵し幸福に満たされると思う。
バッドエンドよりハッピーエンドのほうが好まれる。
観客の満足度も高かろう。
「大衆向け」というのならば、このラストは当然であり、メジャーになる、売れる作品を目指すというのなら、このラストは正解なのだろう。

故にこの現在の大ヒット状況は、観客の満足度、口コミという観点から、なるほど、と理解できる。



でも、でもでもでもでもでもでも
言わせてくれ、たぶん、初めて「君の名は。」で新海作品を見た人には、あれが普通で当たり前に映るだろうけど、違う、違うんだ。
俺の好きな新海誠は違うんだ。
最高傑作は、真逆のバッドエンドの「秒速5センチメートル」で、バッドエンドだから最高なんだ。

新海誠の真骨頂の一つは、その究極に美化された感傷的な美術にある。
空や木々といった自然だけでなく、普段だれも関心を持たない都会のありふれた風景を、ただの電柱や電車や近代的なビルを、生きている世界そのものすべてが美しく光り輝いて至高の価値を持つかのように描いて見せる。
その記憶の中で美化された幻想的な風景が、「喪失」していく主人公の心に寄り添い、これまた感傷的な音楽とともにその美しい映像で、甘やかに包み込んでいく。
取り戻すことのできない「喪失」という現実が主人公に突き付けられているからこそ、この究極に美化された世界の美しさは、より残酷にその美しさを際立たせている。

しかし「君の名は。」はハッピーエンドでは終わってしまうがゆえに、過剰なまでに感傷的だった新海美術の利点は薄まってしまっている、いや失われてしまっている気がしてならないのだ。

「秒速5センチメートル」のラストに納得いかないという人が多数いることは理解している。
あのラストにエクスタシーを感じる自分が少数派なんだろうということも。
それでもあれこそが自分が好きな「新海誠」であり「新海誠」そのものであると信じている。

個人的見解を提示するならば、「ほしのこえ」「秒速5センチメートル」を新海濃度100%とするなら
「言の葉の庭」が60、「星を追うこども」が50、「君の名は。」は30%くらいといったところだろうか。

個人制作のアマチュア作品、少数スタッフによる小規模な短編、多くのスタッフを要する大規模長編と作り方や作品に求められる商業成功のライン等、作品によってバラバラなので、作家性の露出が作品によって変動することは、当然ではあろう。

しかし「君の名は。」がある意味でメジャー、大衆に向けた作品として作られた結果、作家性の露出を抑制されたことで、上手くヒットにつながったかとも言えなくもない。あるいは意図的にそうすることを課して作品作りに臨んだのかもしれない。

どちらにしても、「君の名は。」が作品的にも商業的にも作家的にも大きな転換点となることは、間違いがないのだろう。






2016/08/02

シン・ゴジラ見た

シン・ゴジラ見た!文句なしの100点!
見終わった後、口元がにやけてしょうがなかった。
満足に一言に尽きた。

ということでものすごく久しぶりに語りたいゲージが上がったので、まとめておこうと思います。
ちなみに本編の感想ではありません。



シン・ゴジラの監督が庵野秀明であるという報を知ったとき、思ったことは
「とりあえず見に行く、ゴジラというタイトルだけでめんどくさいオタク(自分含む)がわんさかわいてきてきっと喧々諤々の論争を繰り広げるだろうけど、ゴジラというタイトルにさほど思い入れのない自分は庵野作品として楽しめれば、それで十分」
というスタンスで、過渡に期待せず、かといって不安に思うこともなく公開を楽しみにしていたという感じでした。
ぶっちゃけて言えば今回のシン・ゴジラが庵野監督でなければ、見に行くことはなかったかもしれない。

で、結果としては、過渡に期待していなかったのに、ほとんど期待通りの「見たかったもの」がフルコースで出てきてもう、最高としか言いようがない。

その「見たかったもの」を端的に言ってしまえば、金子修介監督の手掛けた平成ガメラ三部作のコンセプトをゴジラでやる。
これに尽きるのだけれど、ほとんどそれが期待通りに出てきてある意味では予想外だった。
なぜならそれは、あまりにもド直球で正攻法すぎるので、やらないんじゃないかなあと。
(むしろ悪いほうの予想として、対ゴジラの対策チームなり決戦兵器が出てきてエヴァのセルフパロディみたいになるんじゃないかという危惧だけはあったのだけれど、そうならなくて本当によかった)

平成ガメラ三部作のコンセプトとは、現実の日本に巨大怪獣が現れたらどうなるのか、というシミュレーションをしてリアルに描くというもので、当時、アニメ業界に浸透してたリアリズム至上主義的な傾向の流れの中で、怪獣映画でそれをやったらどうなるだろう、やってやろうというムードの中からでてきたものだったのではないかと記憶している。
ただこのコンセプトは、本来はガメラよりゴジラのほうが向いているが、ガメラでやらざるおえなかったという趣旨のコメントがでていたかと思う。
実際、ガメラという怪獣のキャラクター性、過去のシリーズの作品性とを鑑みると、シミュレーションとかリアリズムとかといったコンセプトを当てはめるには多少無理があったことは否めない。
しかし、彼らが当時作りたっかたもの、そして自分たち(主にオタク)が見たかった「リアルな怪獣映画」がそこにはあり、平成ガメラ三部作は支持された。

そのガメラの特技監督をしていた樋口真嗣、縁の深い庵野秀明がゴジラを作ることになり、平成ガメラの一作目から数えて20年を超えて、ゴジラを冠するタイトルで「現実の日本に巨大怪獣が現れたらどうなるのか」「リアルな怪獣映画」を実現して見せた。

という、この経緯がもうすでに燃える。
平成ガメラ三部作に熱中した人ならわかってくれると思う。


あとはもうきっちりかっちりやりたいこと、やるべきことをやって、余計なことは排除したそんな映画で、ほとんど文句のつけようがない。

あえて付け加えるなら、シン・ゴジラで見てていいなあ、と思ったことのひとつは画の美しさ、カッコよさ。
そこは庵野監督なら当然、と思えるところなんだけど、見終わったとあとにふと気づいたのは、夜のシーンが少ないということ。
特撮作品ではありがちなことだけれど、セットや特撮のチープさをうまくごまかすために画面を暗くしたり、夜のシーンが多かったりするのにこれが全く逆。
日中のシーンが大半で全体的に画面が明るい。

街や空が白く明るい。その中に黒い異物のゴジラがそこにいる。
画として映える、ゴジラの存在感
これが美しかった。

今の日本国内の特撮の技術レベルがどうなっているのか正直よく知らないのだけれど
シン・ゴジラ見てて画面のチープさ安っぽさに覚めるということはまずなかった、そういう点においても至福の二時間でした。




2015/10/26

アイドルマスターシンデレラガールズ2ndシーズン 感想

最終回からちょい空きましたが、私的感想まとめておきます。

1stシーズンで感じていた感じていた違和感のひとつ
(参照:至好回路雑記帳: アイドルマスターシンデレラガールズ(ファーストシーズン) 感想
は、この作品、ストーリーの中核があくまで島村卯月に置かれていて、24話で卯月がS(miel)ING!を歌うクライマックスに向けて、すべて計算されて構成されていた、というこっとがはっきりとわかり納得した。
いや納得したというより、おそれいったというか舌を巻いた。
しぶりんとの出会い、1stシーズンでの未央の失敗から成長といった諸々のエピソードが24話に、向けての伏線、仕込みだったのかということと、S(miel)ING!という卯月のもともとの持ち歌の歌詞に含まれた意味をきちっとすくい上げて構成し、強い意思と目的を持ってこの物語が語られていたということに。

しかし、その完成度の高い構成、かなり計算された物語であるがゆえに、まったく別の違和感、疑問がわいてきてしまった。

2ndシーズンに入ってから「シンデレラ」の童話になぞらえて、「お城」「舞踏会」「魔法」「灰かぶり」というキーワードを使って、アイドルという存在や卯月の置かれた状況について描かれる場面が度々ある。
普通の女の子である卯月がキラキラ輝くための「魔法」、女の子があこがれる「舞踏会」、舞踏会が開かれる大きくてきれいな「お城」
プロデューサーという魔法使いに「アイドルになる」という魔法をかけられ、女の子たちが舞踏会というステージに立ちキラキラ輝く。その舞踏会を用意する大きな事務所が「お城」といったところか。

しかしここで疑問がわく。
「シンデレラ」につきものの「意地悪な継母と姉」「王子様」はどこに行ってしまったのかと。
「意地悪な継母」が舞踏会への道を阻む障害、現実と解釈するなら、これは美城常務と解釈することもできる。
「継母」というキーワードを出さないのは、まあそこは察してくださいということで理解できるのでいいとして、では「王子様」は?となる

「王子様」は舞踏会に現れた見ず知らずの少女に心奪われ、「魔法」がとけ会場から消えたその少女をガラスの靴を手がかりに探し出し求婚する、というのが「シンデレラ」の一般的な物語だ。

では魔法がとけて灰かぶりに戻ってしまった卯月を救うのは?

シンデレラの童話になぞらえるならば、「王子様」役を担わなければならないのは、プロデューサーでもなく、周囲の仲間、アイドルたちでもなく、卯月の「ファン」でなければならないのではないのか?

プロデューサーや未央たち仲間の支えで自ら立ち直り、またステージに立つことができるようになる、という24話の流れは、もう一度「灰かぶり」が魔法を信じて魔法をかけられて舞踏会に戻っていく、ということであり、そこに「王子様」は不在である。
 これが、ファンの存在や声援がきっかけになって卯月が立ち直るという流れならば「ファン=王子様」という解釈が成り立つが、そうなってはいない。

24話で卯月がステージに立ち言葉をつまらせるシーン、仕事をしばらく休んでいて久しぶりにファンの前に姿を出して声をつまらせている、あのシーン。自分が卯月のファンならあそこで黙っていられるだろうか、あの状況で声援を発しないファンがいるだろうか。
卯月が歌いだしたとき、見守っていた仲間のアイドルたちが喜ぶリアクションが映されるが、本当にうれしいのはアイドルたちだけだっただろうか、あそこにいた卯月のファンたちのリアクションは?

あそこには「観客」はいても卯月の「ファン」はいない、下手をするとそう見えてしまいかねない。

ここのシーンにかぎらずシンデレラガールズという作品において、ファンの存在感は極力避けられ、物語の中核からは排除されている。
なぜそうなっているのかといえば、それはアイドルマスターというコンテンツの特徴に起因するものであるといえるだろう。
アイマスというシリーズ、コンテンツの特徴はプロデューサーとアイドルの関係を中心にすえられているところにある。
ゲームではプレイヤーはプロデューサー役であり、アニメにおいても視聴者の視点はプロデューサー視点にあることを重きに置かれている。
そのアイドルとプロデューサーの関係が物語の中核であることが求められ、そうであるが故にその外部は極力排除されている。


しかし普通の女の子がアイドルとしてキラキラ輝けるのは、魔法やお城や舞踏会のおかげだけなのだろうか。
シンデレラを見初めてくれる王子様=ファンの存在があって初めて「普通の女の子」でもキラキラ輝ける、輝き続けることができる。
アイドルという存在、あるいはアイドルというジャンルを考察するとき、それを支えるファンの存在というのは決して小さいものではない。

しかし、アイマスというコンテンツにおいてファン=プロデューサーであり、そうあらねばならない。
あくまでアイドルを支えるのはファンでありプレイヤーであり視聴者である「プロデューサー」でなければならない。
だからそれが分離して見えてしまうような描写はさけねばならない。
 アニメのシンデレラガールズはその不文律を忠実に守っている。
その不文律を守っているが故に突き詰めて構成した物語の中にどうしても「王子様」というピースをはめることができず、それをなかったこととして絵を完成させたが故のいびつさ、完全であるが故に感じてしまういびつさをのこしてしまったように思えてならない。

島村卯月というキャラは、個性的なキャラがひしめくシンデレラガールズの中で、「普通」である「個性がないのが個性」という特異的なポジションにある。
しかしそれはアニメ的にはヒロインの資質でもあり、没個性であるが故に物語の中心でいられる。
故に島村卯月がこの作品の主人公、中心として物語が構成されたのは必然であったと同時に、アイドルものというジャンルを作るうえで最適だったともいえる。
だが同時にアイマスというコンテンツのひとつの限界を垣間見せてしまったのかもしれない。

それでもアイドルマスターシンデレラガールズというアニメがすごい作品だと思うのは、すでにコンテンツとして巨大になりファン=プロデューサーさんたちの期待や思い入れを背負う「お城」になり、その「お城」のイメージ、権威を損なわないだけのものをつくり、アイドル=声優たちの個性を輝かせ今もまた魔法をかけ続けているからだ。

もしかしたら、シンデレラガールズは、アイマスの今を描ききった作品なのかもしれない。






2015/07/14

バケモノの子 感想

といいつつ、それにかこつけた細田守語りですです


以前からわかっていたことだけど、今回本当に確信したのは、細田監督は少年キャラ、というかショタキャラを描くときが一番イキイキしている。
サマーウォーズの時もそうだし、おおかみこどもの時もそうだったけど、今回はメインがショタとオヤジの関係だからな!
だがしかしその楽しいオヤジとショタのパートは前半で終了してしまうのでちょっと残念ではある。
結果、ガキみたいなかわいいオヤジが7割くらい占める映画になっちゃったけど、まあそれはそれで需要はありそうだからいいんじゃないですかね!
細田監督がいよいよ自分というか本性だしてきたんじゃないかな、これは、という感じで、見てて楽しくなったというかうれしくなった。

そして今回見ていて確信を得た、というか、もしかして今までカン違いしてたのかもしれないと思ったことがもうひとつ。
それは細田監督って女の子を魅力的に描く気がないんじゃないのか、ということ。
バケモノの子でも、一応ヒロインポジションの女の子が途中から登場するのだけれど、この子にまったく魅力を感じない。
なんというか添え物感が半端ない。
実のところいなくても映画自体は成立するなとすら思える。

サマーウォーズ、時をかける少女など細田作品での女性キャラは意外と評判がよくなかったりする。
魅力がないというより嫌われる、ちょっと癇に障るところのある女性キャラが出てくる。
自分も正直好きになれないところがあって、それは単に細田監督の女性の好みが合わないだけかと思っていたが、実はそれはカン違いだったんじゃないかと考えるようになった。

そもそも細田監督は女の子を描くことに興味がないのではないのかと。
女の子のキャラを描くときに、女の子への理想や妄想や趣味を仮託すれば、自然に魅力的にうつるものだと思う。
それが多少趣味が悪かったとしても、ほらこの子のこういう欠点もかわいいでしょ?となれば魅力的に描かれるのが必然なのではないかと。
しかし最初から女の子を描くことに興味がない、女の子に自分の理想や妄想や趣味を仮託する気がないのだと、と仮定するならば、その描かれる女性はフラットな存在で、魅力がないのは当然といえる。

そんなばかな、と思われるかもしれないが、ここで二つ証拠を提示したい。

この映画後半のアクションシーンでヒロイン楓が二度転ぶ。
アクションシーンで、ヒロインを連れて逃げるというのはお約束だし、危機感切迫感の演出として転ぶシーンがはいるのもパターンではあると思う。
でも二回必要だろうか?
一度なら転んだヒロインを気遣う主人公のやさしさも強調されてプラスになるが、二度転ばれると、「うわ、この女、足手まとい」という印象を見る側は感じてしまう。
なのになぜ二度転ばせるのか?すなわち深層意識でこのヒロインを不要な存在、足手まとい、と思っているからではないのか。

もうひとつ、気づいて、あ、とおもってしまったのだが、たくさんのモブでケモノキャラが出てくるがその中で、ケモノ耳少女がほとんど印象に残らない。
だいたいはオヤジっぽいキャラがほとんど。
男くさい社会を描きたいからかもしれないが、こんだけケモノキャラを出しているにもかかわらずモブでの遊びや賑やかし程度にもケモ耳少女キャラが目立たないようになっているのは、無意識的にそうなったのか逆に作為的なものを感じてしまう。

ショタキャラに対する思い入れ情熱のつよさが、細田作品から隠しようがなくにじみ出ている、ならばその表裏として、女に対する興味関心がまったくなくてもおかしくはないのではないか、というのは自分の中では盲点だった。
自分が思う以上に細田監督はガチやったんや!

この映画に女はいらんかった。
むしろそのポジションは年下の男の子にすべきだった。
ちょうど九太と熊徹と対になるように、そしたらこの映画は完璧だったかもしれない!

今回あの女を出さなければいけなかったのは、「体裁としての恋愛要素」が映画を売るため、企画を通すために必要だったからなのかもしれないない

とはいえ、今回の映画で細田監督が自分の描きたいこと、やりたいことのかなりの部分を自由にさらけ出してきた印象がある。
未だに自分は細田守の最高傑作はウォーゲームだと思っているのだけれど、よく考えれば、あの作品も本編の女性キャラが作品の中心から意図的に排除されていたと、いまさら気づく。

細田作品に女はいらない。

ウォーゲームを超える純度100%の細田守まで後一歩。

そんな確信と期待を思わせる作品でした。

2015/06/25

リリカルなのはVivid12話(第一期終了?)感想


え?ここで終わりってくらい半端なところで終わってしまったんだけど・・・
てっきり二クールやるもんだと思っていたので激しく消化不良
これは二期前提っておもっていいんだよね?ね?

正直なところVividはインターミドル編からが本番!と思っていたので中途半端なところで切られてしまって、物語の勢いがそがれてしまうのは、いかがなものかと思ってしまう。
尺とか大人の事情とかで致し方ない部分もあるかとはおもうのだけれど
せめてミウラVSヴィヴィオまではやってほしかった・・・・

リリカルなのはVividという作品は「リリカルなのは」の名を冠するシリーズ作品で、時系列や設定も前TVシリーズからそのまま継承した直径の作品ではあるけれど、実際には旧シリーズのキャラはあまり前面にでることはなく、ヴィヴィオを中心に新キャラがメインとなり、完全に世代交代を果たすことができた、というところで非常に意義のある作品であるとおもっています。

アインハルト登場の一話から合宿編までは、それでも旧キャラがある程度でてはくるものの、インターミドル編に入ってからは、番長やヴィクター、ミカヤ、シャンテ、ミウラとインターミドル選手が多数登場し、また当初はヴィヴィオの同級生くらいの薄い存在だったコロナ、リオが試合を通してどんどんキャラが成長していくのが、原作を読んでいてもわくわくした。
特にコロナvsアインハルトの一戦はシリーズ中一番といってもいいくらいの熱い戦いで、「リリカルなのは」というシリーズの魂は、キャラが変わってもきちんと継承されているなあ、と感じさせるくらいのベストバウトだったと思う。
アニメでもここはきっちりやってくれたので、よかったのだけれど、だからこそ、ここで終わっちゃうのはいくらなんでも・・・と思ってしまう、この後のミウラvsヴィヴィオ、リオvs番長からの流れが最高なのに!!

出会い編から合宿編までは尺をつかって結構丁寧にやっていてかなり好感をもって見ていたのだけれど、本番であるはずのインターミドル編に入ってから、尺を気にしてか、つめたりきったり入れ替えたりをけっこうやっていたのに、どうしてこうなったorz

原作では、なのはフェイトはやてが試合を観戦しているシーンがあるのだけれど、そこをカットしたのはむしろ英断だったと思うのだが、一方で、試合の外での日常パートも相当削られてしまって、わりと戦ってばかりになってしまったのは、ややマイナスかな・・・

うーん、というわけで原作有の尺の問題でいまいちすっきりしないのだけれど、方向性自体はまちがってないはず!
ということで二期に期待ですね


2015/04/28

アイドルマスターシンデレラガールズ(ファーストシーズン) 感想

自分の中で考えがなかなかまとまらず、やや時間が空いてしまいましたが、いまさらですがファーストシーズン13話までの感想です。


アニメになったアイドルマスターシンデレラガールズという作品に対する現時点での見かたを簡単にまとめると、
「予想外に物語性、ドラマ性の強い作品であったことに対する驚きと、そうであるがゆえに感じる違和感と戸惑い」
といったところだろうか。

しぶりんと卯月の出会いから始まる第一話は、これからドラマを見せるぞ!
という決意のようなものを感じさせるつくりで、まずそこに、そうくるかという意外性があった。
というのも、もともとソシャゲであるシンデレラガールズのキャラクターの面々というのはかなり個性的で言い方は悪いかもしれないがわかりやすい記号的な特徴が付与されているキャラが多い。
本家765プロの面々はそういう記号性は抑えられているのとは、方向性が違っていて、それ自体はゲームそのものの特性の差であり差別化でもあるので、どっちがいい悪いと言う話でもないとは思う。
ただ、アニメ化に際して先行した765プロのいわゆるアニマスがあまり記号的でないキャラであったがゆえにドラマ性、物語性の強い作品を作るのに向いていたのに対して、シンデレラガールズはあまりその方向性は向いていないのではないかと思っていた。
ドラマ性を追求するより、キャラものとしてキャラの個性、魅力を描くことに重点を置いたほうがいいし、向いている作品だろうと、個人的にもそういうものが見たいし、そうなるだろうと期待していた。第一話の放送が始まるまでは。

しかし、その予想を見事にはずれ、6、7話にいたっては、そこまでやるか、というほどに重いというか濃厚なドラマを見せ付けられて、すごいと思いつつもかなり戸惑った。
しかし、その後の個別のユニット結成を描く各話では、ドラマ性は残しつつも、キャラの魅力、個性を描くほうに、力点が置かれていてこの個別ユニット回は、これこれこういうのが見たかったんだよ、というつくりだった。

アニメアイドルマスターシンデレラガールズは原作ソシャゲの個性的記号的なキャラで765アニマスと同じ方向性の物語、ドラマをつくろうとしていると思うのだけれど、この素材で、この料理の仕方はチャレンジ過ぎないか?と思ってしまう。

しかしその一方で、このアニメ化で最も自分が意外性を感じつつもその魅力と株が挙がったキャラがみくにゃんこと前川みくなんだろうと考えるとまた複雑ではある。

みくにゃんは猫耳つけて語尾に「にゃ」をつけるベタベタな特徴づけをされている、ある種アイドルものとしてみた場合、それこそギャグとしてステレオタイプのモブ扱いされてもおかしくないポジションにいる。
そのみくにゃんがアニメ化される中で、アイドルになりたいという欲望に忠実で、泣いたり怒ったり普通の女の子が持つ情緒を表にさらけだし、はしばしに生活臭を漂わせ、その記号的な外面に反して、もっとも血肉の通った人間として描かれている。
みくにゃんにかぎらず他のアイドルたちもそういった側面は数多く見られる。
これは、ドラマ性のあるものを作ろうとするがゆえに、登場人物をすべて等しく地に足のついた人間として描く必要性から生じたものであるのだけれど、そうであるがゆえに、記号的であったはずのキャラクターが記号的でない別の魅力を獲得するにいたったわけで、ドラマ性をおさえていたら、みくにゃんがこういうキャラに成長することはなかったかもしれない。

記号的なキャラを記号的なままで終わらせない、血肉の通った魅力を引き出したい、という意思が、シンデレラガールズという作品にはあるのかもしれない。
その為の濃厚なドラマ作りであるとしても、一方で本田未央というキャラクターは、その負の面を背負わされてしまったのではないかと思わずにはいられないのだ。

もうひとつ、違和感を感じていることがある。
それは、追い込んでいるキャラ、物語に対して、得られるカタルシスが半端に感じてしまっているということなのだけれど、それがなぜなのかは、今はまだ明確に言語化で来ていない。
6話の未央の追い込みに対する7話の解決編のカタルシスは7割、13話の節目のライブ回は8割ほどのカタルシスしか感じない。
キャラや物語を追い込んだり重い展開を見せられたら、その分100%のカタルシスで返して欲しいと思うのだけれど、そこにブレーキがかかっているというか、100%気持ちよくさせてもらえない何かがある。
正直これがなんなのか、なぜそうなのか、あるいはそう感じてしまうのかは、未だにわからない。
ひとつには、まだしぶりんや卯月。未央というキャラをまだぜんぜん描き込んでいない、道半ばの状態にあるがゆえなのかもしれない。あるいはまだ100%に持っていく気がなくて、出力をおさえているのか。
どちらにせよ、気持ちよくドラマのカタルシスを感じたいのに100%気持ちよくなれない、絶頂に至れないもどかしさを現時点では感じてしまっているのは確かだ

アイドルマスターシンデレラガールズという作品は、自分のもっている物差しで計ろうとすると、微妙になにかがずれる。
それは記号的であったはずのキャラにここまで血肉の通ったドラマをやらせようという、意欲的、挑戦的作品を過去にみたことがないからかもしれない。
そうであるがゆえに、ちょっと計り知れない何かがあるようにも感じ、現段階では第二シーズンを見るまでは判断を保留せざるを得ない、と感じている。

2015/04/10

魔法少女リリカルなのはVivid 第一話感想

TVシリーズとしてはおよそ8年ぶりのリリカルなのはシリーズ最新作にして正統続編にあたる魔法少女リリカルなのはVividがはじまりましたー、どんどんぱふぱふー

いやあ、このときを長いこと待ちました。
前作Sts終了後、劇場版2作の製作と平行して連載されていた漫画での続編ということで、いつか必ずアニメ化はされるだろうと信じ続けていましたが、よもやこんなに時が経ってしまうとはねえ。

や、もうね、はじまってから終わるまで、にやにやがとまらない。

導入の朝起きて着替えて自己紹介するヴィヴィオ、これが、完璧に無印の一話のオマージュになっていて、うまいというか、ずるいというか。
なのはがママしてて、フェイトと完璧夫婦で、ヴィヴィオと仲良し親子で家族で幸せいっぱいで、無印から始まった物語が続いていて、キャラが息づいて成長して、ここにたどり着いて、いままたそこに生きているんだという実感。
シリーズをずっと追い続けて見続けて愛情を注ぎ続けてきたからこそ、そうでない人たちには見えないものが作品の向こう側に広がって見えてきて、もう、うれしくてたのしくてしょうがなかった。

ほんとうに、自分がリリカルなのはという作品が好きで好きで、大好きなんだ、ということを再確認させてくれた。
漫画原作があるとはいえ、やはり絵が動いてキャラがしゃべるアニメは格別で特別なんだなあ、うん。

という感じで、シリーズのファンとしては大満足なのでした。

それはさておき、8年ぶりのTVシリーズということで、もはやシリーズをまったく見たことないという初心者さんもこの作品を見るんだろうなあということで、始まる前はもう少し、その辺配慮した構成になるのかな?と思っていました。
だけど、そんなことは、なかったぜ!
原作漫画を上手く再構成して導入話としてはきれいにまとめてはいるのだけれど、最初からナンバーズはじめ前シリーズのキャラはガンガン出すし、StS後のお話を書いたドラマCDにでてくるイクスも出てくるし、世界観について過剰に説明はしていないし、初見殺しもいいとこになっているのだけれど、大丈夫かしら。
まあ、過剰に説明しないのは、むしろいいとは思うのだけれど、なんとなく魔法のある世界で女の子が格闘技やってます程度の理解でとりあえず十分だし。
はてさて、これについてきてここからファンになってくれる御新規さんがどれくらいいるのかなあ、とやや気がかりではあります。 

そんなわけで始まったVivid、存分に楽しんでいきたいとおもいます。


あ、あと、今回もおなじみの奈々ゆかりのOP&ED、作品にそって明るく楽しい雰囲気になってていい感じです、とくにゆかりんのEDはいつものしっとりしたものが多かったのに対して、今回はアップテンポで疾走感のある曲になっていて作品イメージにぴったりで、ここも期待通りでよかった。